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3 天保の改革
1)水野忠邦の方針
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 大塩の乱の4年後、1841年に大御所家斉(いえなり)が亡くなると、12代将軍家慶(いえよし)のもとで、老中水野忠邦(ただくに)を中心に幕府の再建を目指す改革が着手された。(天保の改革)
 彼の方針は享保・寛政の改革と同じように商業資本を抑圧して農本主義を復活させることにあった。乱れた社会風潮をただすためには、きびしい倹約令が発せられ、高価な菓子・料理人・人形・衣服などは禁止され、季節はじめの高価な初物(はつもの)も禁じられた。歌舞伎をはじめとする娯楽を徹底的に取り締まり、戯作者(げさくしゃ)の作者為永春水(ためながしゅんすい)や柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の処罰や歌舞伎役者の市川団十郎などが追放された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 物価引き下げと農村復興政策
 忠邦は物価を不当につり上げている元凶を株仲間にあると考え、株仲間解散令を出した。そして株仲間以外の商人や在方商人に自由な取り引きを認め、江戸や大坂への物資流入を増大させて物価の引き下げをねらった。同時に、諸藩に対しても専売制を禁止させた。
 さらに忠邦は、1843年に人返(ひとかえ)しの法を出して江戸への流入者を強制的に帰農させ、江戸の社会不安の要因を取り除くとともに、農村を復興させようとした。また農村には、年貢を増やすために年貢関係の書類の提出と荒地の再検知を命じた。
3) 幕府権力の強化
 外国船による江戸湾封鎖を想定して印旛沼(いんばぬま)を開削し、利根川・印旛沼・江戸湾とをつなぐ水路を確保し、さらに、江戸・大坂周辺をすべて幕領に編入する上地令(じょうちれい)を出して、戦時に即応できる体制をつくろうとした。
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(東京書籍「図説日本史」より)
4) 改革の失敗
 しかし、風俗取り締まりは経済活動の停滞をまねき、株仲間の解散は商品流通を混乱させ、品薄から物価を上昇させる結果となった。年貢増徴のもくろみも農民の強い抵抗にあい、上地令は幕領に編入される大名領の農民の抵抗と、領民から借金の返済をせまられた旗本や大名の反発にあって挫折し、改革は失敗に終わり、忠邦は失脚した。

 次回の第45回日本史講座は8月27日(土)午後2時より行う予定です。8月13日の第2土曜はお盆のためお休みです。
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2 藩政改革と雄藩の台頭
1) 各藩の財政改革
 諸藩の財政も悪化の一途をたどっていた。多くの藩では、家臣の俸禄の一部を借り上げたり、俸禄を半分に削減する半知(はんち)を行うなどして、藩財政を維持してきた。しかし、天保の飢饉前後から、領民や下級武士らの間から無策な政治をくりかえす藩政の実権を握る上級武士に対して鋭い批判がおこった。諸藩では身分にとらわれず、有能な中・下級武士が積極的に藩政の改革に取り組み、専売制や年貢の前払い、さらに殖産興業などをすすめた。このような藩政改革に成功した雄藩が幕末に活躍できた。
2) 成功した藩政改革
 膨大な借金をかかえ、藩内が動揺していた薩摩藩では、1827年、調所広郷(ずしょひろさと)を中心に改革を断行した。約500万両にものぼる三都商人からの負債を無利息250年賦(ぷ)返済という形で事実上帳消しにし、特産品の黒砂糖の専売や琉球での清との密貿易で利益をあげ、財政再建に成功した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 長州藩では、1831年に全領域におよぶ百姓一揆で国益政策の変更を余儀なくされた。1838年に村田清風(むらたせいふう)を中心に改革をすすめ、在方商人らの協力をえて殖産政策をすすめるとともに、日本海から下関に寄港する廻船の積荷を担保に金融・倉庫業を行う越荷方(こしにかた)に力を入れて莫大な利益をあげ、百数十万両という膨大な負債を返済し改革に成功した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 佐賀藩でも藩主鍋島直正(なおまさ)が天保初年から改革ののりだし、本百姓体制を再建するために均田制を行って地主の小作地を没収するという強硬政策をとり、国産方を設けて陶器(有田焼)・石灰の専売制をおしすすめ、反射炉(はんしゃろ)を築いて大砲鋳造をおこなって軍事力の強化につとめた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 土佐藩では、中・下級武士らを登用して改革を実施したが、上級武士から弾圧されて成果をあげられなかった。その後、中・下級武士らは組織化をはかり、幕末には財政改革に一応の成果をおさめた。また水戸藩でも、藩主徳川斉昭(なりあき)みずから改革の中心となり、海防の強化と均田化をはかる検知などに力を入れたが、保守派の反対で成功しなかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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 第44回日本史講座は7月23日(土)午後2時より受講者8名で行われました。
 Ⅱ 内憂外患と天保の改革
1 内憂外患
1) 内憂
 農村では、農業を人まかせにして工場経営や商品作物の販売に専念する豪農が出現したが、一方で田畑を手放して賃稼ぎなどで収入を求める貧しい農民が多数生まれた。彼らのなかには、職を求めて江戸や近隣の在片町に流れこんだ。その多くは、資金も技術もなかったので、裏長屋に住んで行商などの不安定な仕事で生計をたてた。また、はなやかな都市の暮らしに憧れ、村を逃げ出す若者も増えたが定着できず、博徒などの無宿人となり、都市の治安が悪化した。
 1805年、幕府は水戸藩をのぞく関東に警察権をもつ関東取締出役(とりしまりしゅつやく)を設置して治安の維持に努めたが、効果はなかった。
2) 幕府権力の低下
 1833年から数年間、東北・北陸・北関東で天候不順から凶作がつづき米価が暴騰した。そのため、農村や都市の貧しい人々は飢えに苦しみ、米価の値下げを求めて百姓一揆や打ちこわしを起こした。1836年は大凶作だったので、幕領の甲斐(かい)三河など各地で大規模な一揆が起き、社会不安が一挙に高まったが、幕府や諸藩の救済は後手に回り膨大な数の餓死者を出した。これを天保の飢饉とよぶ。
 このため、武士からも幕政批判が起こったが、なかでも大塩の乱は幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。大塩平八郎は大坂町奉行所の元与力であるとともに陽明学者でもあった。在職中には数々の功績を挙げ、世間の評判は高く、辞職後は私塾洗心洞(せんしんどう)を開いた。1836年天保の飢饉に奉行所に難民救済を直訴したがいれられず、蔵書を売却して窮民を救い、1837年2月、同志を募って挙兵したが鎮圧され自刃(じじん)した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 同じ1837年、越後で国学者が起こした生田万(いくたよろず)の乱をはじめ、大塩の挙兵に共鳴した一揆が各地で起こった。
 1840年、幕府は沿岸警備の負担で財政難に陥っていた川越藩主を豊かな庄内藩に、庄内藩主を長岡藩に、長岡藩主を川越藩に転封(てんぽう)させる三方領地替えを命じたが、庄内藩の領民の抵抗は強く、外様大名からも不満が出たため、翌年、幕府はこれを撤回した。これは幕府の権力が弱まったことを示すできことである。
3) 外患
 この頃、各地の沿岸に外国船が頻繁に姿を見せはじめた。幕府は鎖国を堅持するために、1825年、沿岸に接近した中国以外の外国船を容赦せずに撃退せよという異国船打払令を出した。1837年、日本人漂流民の送還と通商を求めてアメリカの商船モリソン号が江戸湾の入口にあたる浦賀に来航したが、これを撃退するというモリソン号事件が起こった。これに対して蘭学研究をとおして欧米列強の国力の強大さを知っていた高野長英は『戊戌夢物語』を渡辺崋山は『慎機論』でそれぞれ幕府の外国船対策の無謀さを批判したが、幕府は高野長英と渡辺崋山を蛮社の獄とよばれる弾圧によって処罰した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 渡辺崋山は三河田原藩の貧しい藩士であったが出世して家老となった。蛮社の獄で永蟄居(えいちっきょ)を命じられ、藩に迷惑がかかるのを恐れて2年後に切腹した。彼は画家としては西洋画法を取り入れた写生画家として有名であるが、絵を描いたのも収入を得るためであったといわれている。
 一方、高野長英は陸奥(岩手県)水沢藩の医師の子として生まれた。江戸で蘭学を学び、長崎ではシーボルトの鳴滝塾で学んだ。彼は日本で初のピタゴラス、ガリレオ、ジョン・ロックなどの哲学史を要約した。蛮社の獄で終身刑となったが、1844年の牢屋敷の火災で脱獄し、硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、兵学の翻訳などに活動し、江戸に戻ったところを発見されて幕府の役人に囲まれて自殺した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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2 村落の自治と経済活動の拡大
1) 村政に対する村民の自治意識の拡大
 19世紀に入ると、農村には古着や雑貨などを扱う小売商が生まれ、様々な行商人が見られるようになった。市場の役割をもつ在片町では在方商人が店をかまえ、他国からも商人が頻繁に出入りするようになった。こうした変化は、村の身分秩序にも影響を与えた。経済的に成長した農民らは不正を行う村役人の交代を求めて村民を組織し、村民どうしが争う村方騒動が起こるようになった。このため、村役人を選挙したり、信頼のおける農民が1年交代で村役人をつとめるなど、村民の意志を村政に反映させようとする自治的な動きもあらわれた。
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(三省堂「日本史B」より)
 さらに、飢饉から生活を守るために、村の代表が集まって協議する郡中議定(ぐんちゅうぎじょう)とよばれる自治組織がつくられ、代官に代わって地域内の調停にあたる郡中総代(ぐんちゅうそうだい)も生まれた。
2) 村どうしの結びつき
 一方、在方商人は株仲間と市場をめぐる争いをたびたび起こすようになった。彼らは訴願(そがん)や訴訟という合法的な手段をくりかえし、経済活動の権益をしだいに拡大していった。なかでも、1823年に摂津・河内・和泉3か国1307か村の村々が結集して、株仲間による木綿と菜種の流通独占に反対して国訴(こくそ)とよばれる大規模な訴願を起こし、自由な販売を実現させたのはその代表的な事例である。
 また、この頃になると、差別されてきた人々も、皮革生産などをとおして経済的に成長し、生産や生活上の差別からの解放を求めて、訴願や一揆を起こすようになった。西日本の各地では、本百姓らが住む本村の枝村(えだむら)として被差別部落が置かれ、年貢や夫役などで不利な条件を強いられたため、分村運動が起こった。その後、1856年、岡山藩領では、日頃の差別に加えて、渋染(しぶぞめ)か藍染(あいぞめ)の無地の着物を強制されたため、これに対抗する渋染一揆が起こった。
3 教育の普及と識字率の高まり
1) 識字率の向上
 人々が商品経済に巻き込まれたり、自治的な意識を持ち始めると、読み・書きへの関心が高まり、子供に教育を受けさせようとする親が一段と増えた。
 このため、村役人・医師・浪人らが師匠をつとめる手習所(てならいじょ)とよばれる寺子屋と同じような教育施設が賑わいをみせた。女子教育も普及し、江戸などの都市では女性の師匠もあらわれた。寺子屋や手習所では、読み・書き・そろばんが中心だったが、子供が将来必要とされる知識を教える教材の他、地域性豊かな教材も使われるようになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 私塾の普及
 幕府や藩では、農民に読み・書き・そろばんをすすめたが、農業を捨てて高度な学問を身につけることには消極的だった。しかし、向学心に燃えた青年のなかには、各地の私塾で国学や漢学・蘭学などを学び、広い視野で物事を見る目をつちかい、帰郷後、在村の知識人として活躍する者が増えていった。
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(東京書籍「図説日本史」より)

 次回の第44回日本史講座は、7月23日(土)午後2時より行う予定です。
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 第14章 近世から近代へ
 Ⅰ 近代への胎動
1 農村工業の発達と地域市場の形成
1) 大御所時代
 11代将軍家斉(いえなり)は、松平定信が失脚してから政権をとり、1837年将軍職を12代家慶(いえよし)に譲って大御所と称し、いぜん幕政の実権を握っていた。これにちなんで完成の改革から天保の改革までの間、つまり文化・文政から天保にかけての約50年間を大御所時代と呼んでいる。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 家斉は側室を40人、子女を55人も持ち、大奥の生活にふけって政治への熱意を欠いていた。1838年の大奥には大御所付き606人、将軍付き279人、計885人の女中がいたという。このような生活は、幕府の財政難をはげしくした。しかも、その頃政局を担当した老中水野忠成(ただあきら)は賄賂政治家で、政治は腐敗をきわめ、綱紀はゆるみ、財政難克服の対策も出さず、貨幣の改悪を繰り返してその場をしのぐという状態であった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 産業の発達
 一方、貨幣改鋳のたびごとに貨幣の流通量が増えて、インフレーションが引き起こされたが、多額の資金が農村まで出回ったため、諸産業が活性化した。
 様々な産業で問屋制家内工業が増えていったが、特に需要の多い木綿織物業では、貧しい農家の若い女性や子供を賃金労働者として雇い、生産工程をそれぞれ単純な作業に分けて、協同して製品を効率よく大量生産するマニュファクチュア(工場制手工業)がはじまった。尾張木綿の集散地尾張一宮では、京都西陣の機織り技術者がもたらした高機(たかばた)を活用してマニュファクチュア経営を行う者があらわれた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 こうして各地から在方(ざいかた)(在郷)(ざいごう)商人が良質で安い商品を求めてにぎわう地域市場が生まれた。経営者には、村役人のなかから農業経営を拡大したり商売に成功して、金融や酒造りなどを行うようになった地主が多かった。そのため、彼らは豪農と呼ばれている。
3) 地回り物
 各地に成立した地域市場では、在方町が特産物の集散地として栄えるようになったが、最も大きく変化したのは、江戸周辺の江戸地回りとよばれた地域だった。銚子・野田の醤油など繁栄をみせる江戸向けの地回り物とよばれる安い商品を供給する産地が生まれ、株仲間外の新興商人や在方商人らによって、利根川や荒川などの河川を使って持ち込まれた。地回り物はその他に、行徳(ぎょうとく)の塩、佐原(さわら)・流山(ながれやま)の酒とみりん、岩槻(いわつき)・久喜(くき)・真岡(もおか)・結城(ゆうき)の木綿製品、桐生(きりゅう)・足利(あしかが)・伊勢崎(いせざき)・八王子・青梅(おうめ)などの生糸などがある。
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(三省堂「日本史B」より)
4) 江戸中心の輸送路の拡大
 地域市場が各地に成立すると、各地と江戸や大坂、あるいは地域どうしを結ぶ新興の廻船業者があらわれた。兵庫や大坂向けに蝦夷地や日本海沿岸の産物をあつかう北前船だけでなく、瀬戸内海沿岸と江戸との間を運行する尾張の内海船(うつみぶね)は、遠隔地に取引先をもたない在方商人から産物を大量に買いあげて価格の高い地域で売却して利益をあげた。
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(三省堂「日本史B」より)
 こうした動きは、菱垣廻船や樽廻船の経営をおびやかしたので、これは、株仲間などの特権商人をとおして市場統制を行ってきた幕府にとっても大きな問題となった。さらに「天下の台所」大坂は商品移入量が減ってしだいに活気を失い、経済の中心地は江戸に移っていった。
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4 俳諧、人形浄瑠璃、小説、戯作文学
1) 俳諧の再生
 蕉風(しょうふう)の俳諧は松尾芭蕉により多くの人々に広まったが、芭蕉が亡くなると、しだいに低俗化していった。これに危機感をもった与謝蕪村は、蕉風の復活を目指すとともに、みずからも画俳一致(がはいいっち)の叙情性豊な独自の俳風を確立した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
蕪村の代表的な作品
「さみだれや大河を前に家二軒」「菜の花や月は東に日は西に」「春の海終日のたりのたり哉」
2) 人形浄瑠璃
 人形浄瑠璃では、近松門左衛門以後、上方で竹田出雲(たけだいずも)や近松半二らが出て、共作によって、忠義や義理をめぐって葛藤する人間の苦悩を複雑な筋書きに仕立てた時代物が反響をよんだ。歌舞伎でも、人気の人形浄瑠璃の台本をもとにした芝居が歓迎された。
3) 小説
 古典と中国の庶民小説を下敷きにした『雨月物語』などのすぐれた怪異(かいい)小説を書いた上田秋成(あきなり)のような独創的な文人もあらわれた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
4) 戯作(げさく)文学
 文人趣味の風潮は、江戸に独特の文芸を生み出した。遊女とのかけひきをとおして、「粋(いき)」とよばれる裕福な町人の理想の生き方を描いた洒落本(しゃれほん)かれらの間で流行した。また、社会や政治を軽妙洒脱(しゃだつ)な作風で風刺漫画化した大人向けの黄表紙や、知識人の遊びにすぎなかった31音の狂歌が社会や政治を皮肉る滑稽な歌として定着し、世間の出来事などを軽く風刺をきかせて句に詠む川柳も流行した。これらの作品は上層町人や町人文化に共鳴した武士が余技として戯れに書くことが多かったため、戯作と呼ばれた。洒落本の山東京伝、黄表紙の恋川春町、狂歌の大田南畝(なんぽ)(蜀山人)、川柳の柄井川柳(からいせんりゅう)らの戯作者が一躍評判になった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 こうした旺盛な文化活動をささえたのは、三都の本屋と、通俗的な本屋浮世絵をあつかう江戸の地本屋だった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
 
 
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