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 Ⅳ 学問・思想の広がり
1 国学思想の浸透と蘭学の広がり
1) 国学
 国学では本居宣長の弟子平田篤胤(あつたね)が、儒教や仏教を排して、日本古代の神々が万物の創造主であることや排外主義的な尊王思想を主張して、復古神道をとなえ、豪農や神官らに支持された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 蘭学
 蘭学の広まりは西洋医学への関心を一段と高めた。オランダ商館のドイツ人医師シーボルトが開いた鳴滝塾では高野長英などの優れた医者や学者を輩出した。また、緒方洪庵(おがたこうあん)が大坂で開いた適塾には大村益次郎・福沢諭吉・橋本左内など明治維新に活躍する人材が数多く育った。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 天文学
 幕府天文方の高橋至時(よしとき)らが寛政暦(かんせいれき)を完成させるなど、すぐれた天文学者や暦学者が出た。高橋至時の門人である伊能忠敬は海防の高まりに応じて日本全土の沿岸をみずからの足で実測して『大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)』を完成させた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)シーボルト事件
 しかし欧米文化の摂取が鎖国の秩序を乱す行為にまでおよぶと、幕府はきびしく処断した。1828年、シーボルトと幕府天文方で高橋至時の子景保(かげやす)が欧米の学術資料と日本地図などを交換したことが発覚すると、幕府は両人を厳重に処罰し監視を強化したが、これをシーボルト事件と呼ぶ。
2 経世思想の発達と尊王論の台頭
1) 経世論
 極度の財政難に直面した幕府や藩は、政治や経済の改革を具体的に提言する経世論(けいせいろん)が活発になった。本多利明(としあき)は国産開発とともに渡海・交易による利益吸収を説いた。
2) 農民指導や農学の発達
 農政についての学識と経験を生かして農村の復興にあたる者もあらわれた。二宮尊徳は豊富な体験と思想から生まれた独自の方法に基づいて関東で自力更生による農村の再生に尽力した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 尊王論の展開
 海防問題などに危機感を深める武士のなかから、それを変革するための政治思想も台頭した。なかでも水戸藩の藤田東湖(とうこ)は『大日本史』の編纂のなかから生まれた水戸学の思想から、尊王論と欧米列強を追い払えという攘夷論をとなえ、多くの武士に受け入れられていった。彼らの尊王論は幕府の存在を否定するものではなかったが、幕藩体制の危機が本格化すると、国学の尊王論とともに、幕府批判のよりどころとなっていった。
3 民衆宗教の誕生
1) 社会不安
 天明の飢饉以降、局地的に天候不順にみまわれ、各地で災害が起こった。また天然痘やインフルエンザが全国的にたびたび流行し、コレラも上陸して猛威をふるったので、社会不安がしだいに深刻になっていった。しかも当時の医療では治療できなかったので、厄よけや病気回復をかなえてくれる現世利益(げんせりやく)の神仏と流行神がもてはやされた。そのため、1830年、伊勢神宮へ集団参拝する「お蔭参り」(おかげまいり)は通例の60年周期をまたずにはじまり、各地から大勢の人々が生活不安からの解放を求めて伊勢神宮へと向かった。また、冨士講など霊山信仰と旅ブームが結びつき、善光寺参りや金比羅(こんぴら)参りも流行した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 民衆救済の新宗教
 こうしたなかで、中山みき・黒住宗忠(くろずみむねただ)・川手文治郎(かわてぶんじろう)は、みずからの大病や貧困などの不幸とのたたかいをとおして神意を伝える「生神(いきがみ)」となり、不幸な人々の救済を説き、それぞれ天理教・黒住教・金光教という新しい宗教を起こした。彼らの教えは、現実的で分かりやすいものだったので、幕府のきびしい宗教統制にもかかわらず、多くの人々の心をとらえ広まった。

 日本史講座も第45回で前近代を終え、いよいよ次回から近代が始まります。次回の第46回日本史講座は、9月10日(土)午後2時より行う予定です。
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Ⅲ 化政文化 
 化政文化は11代将軍徳川家斉の大御所政治のもとで開化した文化である。
1 民衆文芸の発展と出版資本の繁栄
1)文化(1804~1818年)・文政(1818~1830年)年間の文化の特徴
 笠原一男著「山川出版 日本史研究」によると化政文化の特徴は、①文化の内容が多種多様になり、国民的に広がっていった。②享楽的・退廃的な傾向が強まる。③科学的・考証的な精神が芽生えてきた。以上3点を指摘している。
2)民衆文芸の 文芸で人気を博したのは、笑いを基調に下層民の生態を生き生きとえがいた滑稽本(こっけいぼん)である。
 また男への貞節ゆえに苦悩する女心を江戸情緒豊かに描いた人情本(にんじょうぼん)が女性読者を一喜一憂させた。
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読むことを主にした読本(よみほん)では中国の庶民文学や日本の古典をもとに、勧善懲悪を主題にした歴史物語が喜ばれた。
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さらに物語が長編化したため合冊の形をとるようになった合巻(ごうかん)は、恋の遍歴を妖艶(ようえん)な絵と文章でたどる絵草紙(えぞうし)が女性に人気をよんだ。滑稽本の十返舎一九(じゅっぺんしゃいっく)や式亭三馬(しきていさんば)、読本の滝沢馬琴(たきざわばきん)、人情本の為永春水、合巻の柳亭種彦(りゅうていたねひこ)らが人気作家となったが、彼らを世に送り出したのは江戸の地本屋(じほんや)と貸本屋だった。地本屋はさし絵に人気の浮世絵師を使って出版し、各地の貸本屋をとおして読者を広げ文芸のおもしろさを運んだ。
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 第45回日本史講座は8月27日(土)午後2時より受講者6名で行われました。
6 蝦夷地・琉球
1) 蝦夷地
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 蝦夷地は外様の松前藩が支配していたが、ロシアが蝦夷地近海に出没したため、幕府は1799年に東蝦夷地を幕領に編入し、さらに1807年には蝦夷地全域を直轄地とした。幕府が蝦夷地の開発に力を入れると、本州から資金力の豊富な商人と没落農民らが多数移住してきた。そのため、アイヌ社会は、商人による圧迫や天然痘の流行、幕府の和風化政策で衰退を余儀なくされた。
 ロシアとの緊張が緩和して蝦夷地が松前藩に戻されると、松前藩の家臣は商場(あきないば)の交易権を大商人に譲渡し、代償として毎年一定の運上金を受け取る場所請負制(ばしょうけおいせい)を蝦夷地全土に広げたため、アイヌは請負商人のもとで酷使され、強制的に移住させられる者も出て、人口が一層減少していった。
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(松浦武四郎)(ウィキペディアより)
 ところで、なぜ蝦夷地を北海道と呼ぶようになったのか、その名付け親となったのは三重県松阪市の郷士出身の松浦武四郎である。彼は探検家で蝦夷地を6回も探査を行っているが、3回は自費で、その後は幕府や明治政府の役人としてである。探査の時にはアイヌの人達に世話になっており、彼はアイヌの言葉を残したいと考え、明治政府の開拓史の役人となったときに、アイヌは自分たちのことを「カイ」と呼んでいたので、蝦夷地という蔑称から「北加伊道」(ほっかいどう)と呼ぶことを提唱した。しかし、明治政府は「北海道」という漢字を当てはめた。また、北海道の地名にアイヌ語に漢字を当てはめたのも武四郎がアイヌの言葉を大切にしたいと考えたからである。

2) 琉球
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 琉球という名称は中国人によって命名されたが、初めて歴史書に登場するのは、7世紀に書かれた『隋書』(東夷伝)という書物である。ただし、これが現在の沖縄諸島を意味したという確証はなく、台湾のことをそう呼んでいたという説もある。確実な書物としては『明実録』(1371年)に琉球の王が明朝皇帝に朝貢してきたという記述がある。
 沖縄という名称は8世紀の文献『唐大和上東征伝』に「阿児奈波」(おきなわ)の名で登場するが、明記されているが、沖縄最古の歌謡集であり、古代沖縄の歴史、民族、宗教、言語などを探る重要な資料の『おもろさうし』に「おきなは」とある。「沖縄」と明記したのは新井白石の『南嶋志』(1719年)が最初である。その語源は、「沖あいの漁場」や「遠い場所」などの意味があり、定説はない。
 中世以来、東南アジアと中国・朝鮮・日本とを結ぶ軍事・交通の要地にあった琉球周辺にはこの頃、欧米の船舶が頻繁に姿をあらわすようになり、フランスやイギリスは開国を要求したが、ペリーも琉球を拠点にして日本に来航した。独自に決定する権限をもっていなかった琉球王府は、そのつど薩摩藩に指示をあおいだ。その間、外国人が上陸して測量などを行って島内を混乱させた。また薩摩藩の藩政改革で、琉球特産の黒砂糖の生産や販売をきびしく統制されるようになると、困窮する者が激増し、農民はしばしば飢餓状態におちいった。
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