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3 討幕運動の展開
1) 薩摩と長州の動き
 薩英戦争後、薩摩藩では、下級武士の西郷隆盛や大久保利通らが藩政の実権を握り、イギリスの支援で軍事力の充実につとめ、武力討幕の意志を固めた。
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(小学館「日本の歴史23」より)
 また、長州藩でも高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)らが幕府と戦うべきことを主張して、農民や町人らからなる奇兵隊をはじめとする諸隊を率いて反乱を起こし、藩政の実権をにぎりかえした。高杉や桂らは豪農の支持も得ながら、イギリスから兵器を購入して軍事力を強化し、尊王攘夷論を捨て、開国して列強に対抗できる統一政権の樹立をめざし武力討幕の準備を進めた。危機感を深めた幕府は、1865年、第二次長州征討を決定した。
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(小学館「日本の歴史23」より)
2) 薩長同盟
 このような幕府の動きに対して、木戸孝允は討幕派が実権を握った薩摩藩との連携を望むようになった。そして、土佐藩出身の坂本竜馬と中岡慎太郎らの仲介により1866年に薩長同盟の密約が結ばれた。従来、坂本竜馬の発案で薩長同盟が成立したと考えられていたが、最近の研究では木戸孝允が坂本竜馬に薩摩藩との仲介を依頼したのが真実であるらしい。
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(小学館「日本の歴史23」より)
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(ほるぷ出版「日本の歴史4」より)
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(小学館「日本の歴史23」より)
3) 第二次長州征討
 1866年6月、将軍家茂は第二次長州征討に進発した。しかし、薩摩藩は出兵を拒否し、幕府軍の意気はあがらず、大村益次郎の指揮する近代的な軍備を整えた長州軍のために各地で敗れ撤退するありさまであった。そのうえ、物価の高騰などに苦しむ人々が江戸や大坂などで世直し一揆を起こしたので、幕府は将軍家茂の病死をきっかけに8月には長州征討を中止せざるをえなくなった。
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(小学館「日本の歴史24」より)

 次回の第48回日本史講座は10月8日(土)午後2時より行う予定です。
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3) 長州藩の尊王攘夷運動
 長州藩では、吉田松陰門下で尊攘派の下級武士の久坂玄瑞や高杉晋作、桂小五郎らが藩論を公武合体から尊皇攘夷にかえさせ、三条実美ら急進派公家と結んで朝廷を動かし、1863年5月10日を攘夷決行の日とすることを将軍家茂に約束させた。その当日、長州藩は下関海峡を通過する外国船を砲撃したため、アメリカやフランスは下関を報復攻撃した。さらにイギリスは、生麦事件への報復のため、鹿児島に集中砲撃をくわえたが、これを薩英戦争と呼ぶ。
 このような尊王攘夷運動の高まりに対して、幕府や薩摩藩・会津藩などは朝廷内の公武合体派と提携して、ひそかに政変の準備を進めていた。1863年8月18日、薩摩・会津両藩兵が京都御所を包囲し、三条実美ら尊攘派の公家7人と長州藩とを排除したが、これを八月十八日の政変と呼ぶ。これと相前後して、大和地方では天誅組(てんちゅうぐみ)の乱、中国地方では生野の変など、尊攘派の挙兵があいついで起こったが、いづれも失敗に終わった。
 勢力の回復をめざす長州藩は、京都の旅館池田屋で多数の尊攘派志士たちが会合中に、新撰組に襲撃されるという池田屋事件に襲われた。この時、難を逃れた桂小五郎は、京都に残って情報を集めるために乞食に変装して鴨の河原で芸者幾松から援助を受けたといわれている。
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(芸者幾松は後に木戸孝允と結婚して公爵夫人となった)(中公新書「木戸孝允」より)
 1864年、長州藩は藩兵を大挙上京させたが、幕府側は薩摩・会津・桑名藩兵らをもってこれを迎え撃った。長州勢は禁門の変で大敗し、久坂玄瑞などの指導者は自殺し、尊攘運動は大きな痛手をこうむった。
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(小学館「日本の歴史23」より)
4) 第一次長州征討
 幕府は、この行動に出た長州藩を朝敵として、朝廷に征討令を出させ、諸藩に出兵を命じたが、これを第一次長州征討と呼ぶ。一方、攘夷実行による砲撃で損害を受けたイギリス・フランス・アメリカ・オランダは、四国連合艦隊を編制して長州藩の下関砲台を攻撃・占領した。大打撃を受けた長州藩では、保守派が台頭して幕府に恭順の意をしめして降伏したので、征長軍は戦わないまま撤兵した。ついで長州藩は列強とも講話を結び、攘夷の無謀さと富国強兵を認識した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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2 公武合体運動と尊王攘夷論
1) 明治維新の人物像
 私は明治維新の始まりは1853年のペリー来航からであると考えている。この年は干支で癸丑(きちゅう)であり、「癸丑以来」という言葉が志士たちの間でよく使われていた。それは幕藩体制を大きくゆるがす出来事であると自覚していたからであろうが、この1853年を維新に登場する人達は何歳でむかえたのであろう。下の資料を見ると、吉田松陰は23歳、桂小五郎は20歳、坂本竜馬は18歳であったが、三人ともこの頃江戸で暮らしており、ペリーの来航という事件に衝撃を受けただろう。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 講座参加者に明治維新で知っている人物をあげてもらったが、坂本竜馬や西郷隆盛、高杉晋作などが出てきたが、桂小五郎(木戸孝允)が出てこなかった。長州藩は、一時期から一貫して尊皇攘夷を主張し、やがて薩摩藩とともに討幕運動の中心となった藩である。そして、長州藩の尊王攘夷運動の中心となったのが桂小五郎であるにもかかわらず、彼は一般大衆にあまり人気がない。
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(1865(慶応元)年の長州の政治体制 木戸孝允が藩の中枢を占めている。)(小学館「日本の歴史23」より)
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(中公新書『木戸孝允』)
 桂小五郎は江戸の斉藤弥九朗道場練兵館の塾頭としてのさっそうたる青年剣客、テロリズムの嵐の吹きすさぶなかで、京都の鴨河原を舞台とした芸者幾松との恋物語のヒーローとしての要素があるにもかかわらず、坂本竜馬や西郷隆盛のような小説や映画のヒーローにはなっていない。
 大江志乃夫著『木戸孝允』(中公新書)によると、「何事にも筋をとおさねばおさまらない木戸、そこに理性人としての性格が、悪くすれば、筋を貫くために大局の判断を誤りかねないという特有の欠陥」をもっており、「そしてそのことが、実は、維新後の新政府部内において、最も筋の通ったイデオローグとしての立場に光彩を発揮しながら、現実の政治の動きのなかで泥にまみれることのできない木戸のスッキリしない進退の変転となって現れる。」と木戸の性格を記述している。人気のない理由はこのように理性的な性格であり、要するに地味なのである。
 一方、坂本竜馬について、「この一件途方もない野放図さ、大局を見通すことができれば、要は決断であり、よいことは実行すればよいではないか、そこにいたる筋とか面目とか、そんなものはどうでもよい、それは「私」の問題であって「公」の問題ではない。それは、坂本が主の拘束を受ける武士ではなく、自由人として行動してきたことの結論であった。坂本にはみずからの行動を束縛するような何ものももなかった。彼の行動を規定しているのは、ただ、日本の将来という大局的な展望だけであった。」と記述している。
 また、西郷隆盛について、「この幕末の激動期にすぐれた軍事謀略家として才能を発揮した人物は、小節にこだわらなかった。彼の才能は、その誠実さと包容力の大きさと、行動への強固な意志によってのみささえられていた。だから、いったん、自己のすすむべき指針を発見すると、いっさいの行きがかりを捨て、小節にこだわらず、行動を開始した。その彼に、適切な指針を示唆する人物があれば、彼はその包容力をもって、自己の才能を発揮した。」とそれぞれの人物を記述している。
2) 公武合体論
 さて、幕府は、朝廷の権威を利用して、維新の回復を図ろうとして、朝廷(公家)と幕府(武家)とが融和する公武合体運動をすすめた。
 井伊直弼のあと幕政を任された老中安藤信正は、1861年、安政の大獄で処罰された松平慶永らを許し、翌1862年、孝明天皇を説得して、その妹の和宮を将軍家茂(いえもち)の夫人にむかえることに成功した。その安藤は、1862年、この措置は天皇の妹を人質にとるものだと怒った水戸浪士に江戸城の坂下門外で襲われるという事件が起こった。しかし、公武合体運動は薩摩藩や土佐藩などの雄藩の支持を受けながら続けられた。
2) 薩摩藩の台頭
 薩摩藩では、島津斉彬の急死後、藩主の父島津久光が藩政の実権を握り、1862年、兵を率いて京都に入り、朝廷を動かして幕政を改革した。幕府はやむなく、徳川慶喜を将軍後見職、松平慶永を政治総裁職、会津藩主松平容保(かたもり)を京都守護職に任命し、雄藩との連携を深めながら、参勤交代の緩和や軍政改革に乗りだしたが、これを文久の改革と呼ぶ。その帰り道で、横浜郊外の生麦村で島津久光の行列を横切ったイギリス人が殺傷される事件が起こったが、これを生麦事件と呼ぶ。
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(小学館「日本の歴史23」より)
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 Ⅱ 尊皇攘夷と討幕運動
1 安政の大獄
1) 公議政体論
 天保期に藩政の改革を行った薩摩・長州・土佐・肥前の諸藩や、越前藩などでは、下級武士の藩政への発言力がしだいに大きくなり、また、老中阿部正弘の就任以来、雄藩も幕政に対して発言できるような状況が生まれていたので、ペリー来航以後、開国か攘夷かをめぐる問題や将軍継嗣問題については激しく論じられるようになった。この頃、適塾などで学んだ越前藩士の橋本左内は、欧米列強の先進的な技術を積極的に取り入れながら、将軍と大名の合議制による雄藩連合政権をつくることを訴えていた。この考え方は公議政体論と呼ばれ、その後の公武合体派を支える論理となった。
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(小学館「日本の歴史23」より)
2) 尊王攘夷論
 幕府が列強の圧力に屈して、勅許を得ないまま、通商条約に調印したことへの批判が吹き出した。攘夷論はもともと、鎖国を幕府開設以来の制度として維持すべきだと主張する限り保守的な思想であった。しかし攘夷論は、しだいに力を持ってきていた、天下の政治は、将軍のものではなく、天皇から委任されたものと考える尊王論と結びついて、尊王攘夷論と呼ばれる幕府批判の運動として展開されることになった。下級武士らのなかには、脱藩して志士(浪士)となる者も現れた。
3) 幕府内部の対立
 この難局に、病弱で子のいない13代将軍徳川家定の後継者として、将軍の血筋に近い紀伊藩主徳川慶福(よしとみ)と、水戸藩主徳川斉昭の子で人望のある一橋慶喜のどちらがふさわしいのか、意見の対立が生まれた。大老井伊直弼は保守的な譜代大名をかかえて徳川慶福を推したが、これを南紀派と呼んだ。一方、開明派の越前藩主松平慶永や島津斉彬(なりあきら)らは一橋慶喜を推して、橋本左内や薩摩藩士の西郷隆盛らを使って運動したが、これを一橋派と呼んだ。
4) 安政の大獄
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(小学館「日本の歴史23」より)
 1858年、井伊直弼は強引に12歳の慶福を14代将軍に決め、幕府独裁の復活を策して徳川斉昭や松平慶永らを処分し、翌年、橋本左内や長州藩士の吉田松陰らの志士たちを処刑したが、その数は総計100余名にのぼった。この時、西郷隆盛も幕府の追求を受け、僧月昭(げっしょう)とともに薩摩に帰ったが、佐幕論に傾いていた薩摩藩からも追われ、1858年に月昭と投身自殺をはかったが助かり、奄美大島に流された。
 安政の大獄に憤慨した水戸や薩摩の浪士らが、1860年に江戸城の桜田門で井伊直弼を暗殺すると、幕府の権威は急速に衰え、一方、尊王攘夷運動は激しさを増していった。
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(三省堂「日本史B」より)
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 第47回日本史講座は9月24日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
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(三省堂「日本史B」より)
6 西洋文化の摂取
1) 危機への対応
 オランダから入ってきたアヘン戦争と清の敗北の情報は、幕府や雄藩に危機意識とともに、大砲装備などの軍備の近代化が急務であることを強く意識させた。幕府は、江戸湾に砲台(台場)を築くとともに、川越・彦根藩にかえて、熊本・長州藩に警備を命じた。
 それを最も早く説いたのが長崎町年寄の高島秋帆(しゅうはん)であった。それを受けて、1850年、肥前(佐賀)藩はオランダの翻訳書を頼りに鋼鉄をつくるための反射炉(はんしゃろ)づくりに着手し、1年半かかって大砲鋳造に成功した。反射炉とは金属を精錬・溶解するための溶鉱炉のことで、炉内で熱を反射させて高熱を得て、金属を溶かすところから名付けられた。幕府では、1853年、高島秋帆の弟子の江川太郎左衛門に命じて、伊豆韮山(にらやま)に築造を開始した。さらに薩摩藩・水戸藩・長州藩・鳥取藩などでも建造された。
 幕府はまた、諸藩の大船建造を許可し、江戸に旗本や御家人に洋式兵衛を訓練するための講武所をもうけ、長崎にはオランダの援助で洋式海軍育成のための海軍伝習所を開き、その付置(ふち)施設として、1860年に長崎製鉄所を建設し、また、フランスの援助で横須賀製鉄所の建設所に着手した。一方、薩摩藩は大砲鋳造のほか、洋式機械工場や日本初の紡績工場(鹿児島紡績工場)、ガラス製造所などの集成館(工場群)をつくるなど、近代工場の建設に積極的であった。
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(小学館「日本の歴史23」より)
2) 西洋学問の摂取
 幕府は、物理学・化学など軍事に必要な自然科学や外国語などの教育機関を充実させ、藩士や庶民にも開放した開成所(かいせいじょ)をもうけた。これは1855年に蕃書和解御用(ばんしょわげごよう)から洋学所を独立させて洋学の研究機関とし、その後、蕃所調所、開成所と改称されもので、現在の東京大学である。
 幕府は欧米への留学生も積極的に派遣したが、それは日米修好通商条約の批准書交換のために幕府が遣米使節を派遣して以後、はじまった。幕府は、蕃所調所の西周(にしあまね)・津田真道(まみち)や海軍操練所の榎本武揚(えのもとたけあき)らをオランダに、開成所の緒方城次朗(緒方洪庵の三男)らをロシアに、徳川慶喜の弟徳川昭武(あきたけ)らをフランスに留学させた。また、長州藩の伊藤博文・井上馨(かおる)や薩摩藩の森有礼(ありのり)らがイギリスに留学した。こうしたなかから、その後の日本の近代化に貢献する多くの人材が育つことになった。
 一方、日本に関する情報は、シーボルトらをとおして欧米に伝えられたが、1867年のパリ万国博覧会が開かれてから本格的に紹介されるようになった。なかでも、浮世絵がマネ・モネなどの印象派やゴッホなどに大きな影響を与えるほど、ジャポニズム(日本趣味)と呼ばれるブームが起こった。
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5 貿易の開始
1) 開港場と貿易相手国
 幕府は、条約で開港場と決めた神奈川を、ハリスやイギリス総領事オールコックらの反対を押し切って、管理と治安の維持がやりやすい横浜に変更し、1859年から横浜・長崎・箱館の3港で貿易が始まった。この時、アメリカは南北戦争前夜で国内が混乱していたため、貿易は主に産業革命が最も進んでいたイギリスとの間で行われた。
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(三省堂「日本史B」より)
2) 貿易の特徴
 輸出品は生糸が圧倒的に多く、ついで茶・産卵紙・海産物など原料や半製品・食料が多く、輸入品は毛織物・綿織物・綿糸や武器・艦船などの工業製品が多い典型的な植民地型貿易である。貿易は、在方商人が生糸などの商品を居留地にもちこんで取り引きするという居留地貿易で、横浜での取り引きが全体のおよそ80%を占めた。貿易収支は、1866年までは輸入超過出会ったが、1867年からは輸入超過となった。
3) 貿易の影響
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 貿易が始まると、金銀の交換比率は、外国では1対15だったのに、日本では1対5だったため、海外に金が大量に流出した。幕府は金の含有率の低い貨幣を造ってこれを阻止しようとしたが、貨幣価値が下がり、物価が高騰する一因となった。さらに貿易が盛んになると、生糸をはじめとして物資が大量に流出して品不足がおきて物価が上昇し、民衆の生活を直撃した。幕府は対策として、1860年、国内の需要の確保と特権商人の保護などを目的に、雑穀・水油(菜種油)・蝋(ろう)・呉服・生糸の五品にかぎり、江戸の問屋を経由して横浜に送るように命じた五品江戸廻送令を出した。しかし、これはほとんど効果があがらず失敗に終わった。こうした経済的混乱がつづくにつれて、各地で一揆や打ちこわしが起こったが、その原因が貿易にあるとみた下級武士らの攘夷意識が強まり、外国人殺傷事件も起こった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 次回の第47回日本史講座は9月24日(土)午後2時より行う予定です。
 
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4 日米修好通商条約の締結
1)日米修好通商条約締結の過程
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 日米和親条約にもとづき、1856年、アメリカの初代総領事ハリスが下田に着任したが、彼は翌年江戸に入って将軍に謁見し、強い態度で日本との通商条約の締結をせまった。その頃、中国ではアロー号事件で清国が英仏に敗北したことが日本に伝えられており、幕府は強い衝撃を受けていた。阿部の後をついだ老中堀田正睦(まさよし)は、大名に意見を求めたが、強い反対にあい、強硬な攘夷論者である孝明天皇の勅許(ちょっきょ)を得ることができなかった。ハリスはこれを見て、英仏両国が清に屈服させた勢いで軍隊を派遣してくることを伝え、幕府に条約締結をせまった。そこで、堀田に代わって幕政の実権を握った大老の井伊直弼(なおすけ)は勅許を得られないまま、1858年6月、日米修好通商条約に調印した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 通商条約の内容
 条約は14条から成り、内容は①神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港と江戸・大坂の開市(かいいち)、②通商は自由貿易とすること、③開港場に外国人居住区(居留地)を設けて一般外国人の国内旅行を禁止、などが決められた。しかし、④アメリカ領事に裁判権を認める(治外法権)、⑤関税率は、日本に決定権がなく、両国の協定によって決めること(関税自主権がない)などの不平等条項を押しつけられた。
 幕府はつづいてオランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様な条約を結んだが、これを安政の五ヵ国条約と呼ぶ。
3) 咸臨丸
 日米修好通商条約の批准交換のため、総勢77人の日本使節団がアメリカに送られることになった。彼らはアメリカ軍艦ポーハタン号に乗り、1860年に出発した。これとは別に、使節を護衛し、日本の海軍伝習の技術を実施に試すため、咸臨丸が派遣されることになった。
 咸臨丸は、幕府が注文してオランダでつくられた長さ47m、幅7m、木造の汽船で100馬力、625トンの軍艦であった。艦長には勝海舟が任命され、総員96人が乗り込んだ。中浜万次郎は通訳主任として、福沢諭吉も加わっていた。咸臨丸はポーハタン号より一足先に、1月17日に浦賀を出帆し、37日かかって太平洋を横断し、サンフランシスコに到着した。その間、咸臨丸は太平洋の荒波にもまれ、艦長の勝海舟は船酔いで寝たきりであった。また日本人の水夫もほとんど役立たず、オランダ人水夫達の援助によって何とか乗りきることができたらしい。しかし、アメリカを最初に訪れた日本船であるとして、乗組員は大歓迎を受けた。
 一行が品川に到着したのは5月6日であった。勝海舟は、老中から「異国に渡ってから、何か眼をつけたことがあろう。詳しく申せ」と聞かれ、「別に変わったことはありません」と答えた。さらに「何か変わったことがあるだろう」と尋ねられて、「さよう、少し眼につきましたのは、アメリカでは、政府でも民間でも、およそ人の上に立つ者は、みなその地位に応じて利口でございます。この点ばかりは、まったくわが国と反対のように思います」と答えたという。(ほるぷ出帆『日本の歴史4』より)これは作り話ではないかと私には思われるエピソードである。
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(ほるぷ出帆『日本の歴史4』より)
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3 日本の開国
1) ペリーの来航
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 日本は英仏ではなくアメリカよって開国をせまられたがそれはなぜか、列強の間にもそれぞれ事情があった。イギリスは太平天国の乱やインド大反乱の鎮圧に力をとられ、フランスは本国で起きた二月革命の混乱への対応に追われていた。また、英仏は1853年に起こったクリミア戦争にはトルコを援助してロシアと戦い、ともに日本進出の余裕はなかった。
 一方、アメリカは、1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されて以来、西部開拓が進み、太平洋岸に都市が建設された。余談ではあるが、49年のゴールドラッシュの時に鉱夫の作業ズボンに目をつけたのがヤコブ・デービスで、彼はリーバイス社から仕入れたキャンパス生地を用いて仕事用パンツを発売し大もうけした。このパンツがジーンズと呼ばれるのは、イタリアの都市ジェノバから輸入されたためらしい。
 当時アメリカは、灯油の原料としてクジラの脂を使っていたが、大西洋の捕鯨漁業は取り尽くされ、新たに北太平洋捕鯨漁業が盛んとなった。そのため捕鯨船の飲食料や燃料の補給地として、また、中国貿易を行う船舶の寄港地として、日本や琉球が必要になっていた。ビッドル来港から7年後の1853年、アメリカ東インド艦隊司令官ぺりーが軍艦4隻をひきいて浦賀にあらわれ、フィルモア大統領の国書を示して開国をせまった。幕府は、ペリーの軍事的圧力におされて国書をうけとり、回答を翌年に引き伸ばした。また、ロシア使節プチャーチンが長崎に来港して、国境の画定と開国を求めてきた。
2) 幕府の対応
 阿部正弘は、徳川斉昭を海防参与に任命し、慣例を破って朝廷にペリー来航を伝え、幕臣だけでなく、大名にも意見を求めた。阿部は、挙国的な対応でこの難局を乗り切ろうとした。阿倍のこのようなやり方は、従来、幕政の局外に置かれてきた朝廷の権威を高め、公家や外様大名が幕政に介入するきっかけを与えた。
3) 日米和親条約
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1854年、ペリーは軍艦7隻で再び来航して開国を迫ったので、幕府はやむなく日米和親条約を結んだ。条約では、①アメリカ船への燃料・食料・石炭を供給するために下田と箱館の2港を開く、②難破船や乗組員を救助する、③アメリカ人総領事を下田に常駐させる、④アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること、などが取り決められた。継いで幕府は、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結んだ。
 こうして、200年以上つづいた幕府の鎖国体制は完全に崩壊した。
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2 開国前夜の政局
1) 開国前の幕府の外交姿勢
 1842年、イギリスがアヘン戦争で清国を打ち破った情報が日本にもたらされると、幕府は異国船打払令をゆるめ、同年これを廃止して、外国船に燃料・食料を与えてすみやかに退去させることとした天保の薪水給与令(しんすいきゅうよれい)を出した。
2) 鎖国政策の維持
 幕府は、オランダ商館に対して、和蘭風説書(おらんだふうせつがき)よりさらにくわしい別段風説書(べつだんふうせつがき)をあらたに提出させて詳細な海外情報の入手につとめながら、高島秋帆(しゅうはん)らの洋式兵学者を招いて、江戸湾の防備を強化し、西洋砲術の導入をすすめた。しかし、鎖国政策の維持にこだわり、1844年、オランダ国王ウィルレム2世が特使を派遣して日本に鎖国をやめるようにうながした時も、また、1846年にアメリカ東インド艦隊司令官ビッドルが江戸湾入口の浦賀に来航して通商を求めた時も、幕府はこれを拒絶した。
3) 阿部正弘の政策
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(小学館「日本の歴史23」より)
 水野忠邦の失脚後、幕府政治を掌握した若き老中阿部正弘(あべまさひろ)は、有能な幕臣を側近にすえ、1851年、江戸や大坂への物資流入の増大と全国市場の統制のために、新興商人らを新たに加えて株仲間を再興するなど、現実的な政策を打ち出した。また阿部は、前水戸藩主徳川斉昭(なりあき)や外様大名の薩摩藩主島津斉彬(なりあきら)・肥前藩主鍋島直正(なおまさ)らと深く交わり、これら雄藩の意見を重視して幕政をすすめた。
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 第46回日本史講座は9月10日(土)午後2時より受講者7名で行われましたが、いよいよ近代史の学習が始まりました。
 第15章 明治維新と近代国家
 Ⅰ 激動するアジアと日本の開国
1 激動するアジア
1)なぜ日本は近代化に成功したのか
 アジアの国々はインド・中国・朝鮮・東南アジアなど、ほとんどの国が植民地化していったのに、なぜ日本は独立を維持し、近代化に成功したのか。その要因の一つは幕末の日本の経済的な発展とともに、教育・文化などがかなり進んでおり、近代化を受け入れる条件が整っていたことが考えられる。畿内の綿織物業ではマニュファクチュア(工場制手工業)が行われ、教育では寺子屋が全国に普及し、庶民の多くが読み書きそろばんができた。このような国内的な要因だけでなく、国際的な背景が考えられる。羽仁五郎が「太平天国が明治維新を成立させた」と指摘しているように、中国の民衆の闘いがイギリスの植民地支配の政策を変えさせた。イギリスは太平天国の乱やインド大反乱の反省を踏まえて、武力による支配はかえって犠牲が大きいので、現地の支配者を利用する政策に転換した。イギリスが薩長と手を結んだのにはこのような理由がある。
2)19世紀の欧米の状況
(三省堂「日本史B」より)
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 19世紀にはいると、ヨーロッパやアメリカでは産業革命が進み資本主義社会に移った。欧米の列強は、工業生産のための原料の入手先や製品の販売先として、植民地や海外市場を求めて世界各地に進出していった。
3)中国の状況
 イギリスは、1840年、国内へのアヘン持ち込みを拒む清朝にアヘン戦争を仕掛けて破り、1842年の南京条約などで、香港の割譲や上海など五港の開港、賠償金の支払いなどを約束させた。これをきっかけに、アメリカやフランスなども中国市場へ進出し、ロシアもその機会をうかがった。中国の民衆は、賠償金を民衆への負担の増加によってまかなおうとする清朝政府の打倒をめざして太平天国の乱を起こした。
4)インドの状況
 イギリスのインド支配は1757年にフランス・ベンガル太守連合軍を破ったプラッシーの戦いから始まった。その100年後の1875年、イギリス軍のインド人傭兵(セポイ)が、差別の解消と待遇改善を要求して反乱を起こすと、大規模な反英闘争に発展したが、これをインド大反乱と呼ぶ。
5)アジアへの来航
 こうして、アジアでは列強の進出をきっかけに激動の時代に突入したが、フランスやイギリス、ロシアの船舶が琉球や蝦夷地にたびたび来航するなど、列強の日本進出は時間の問題となった。
 

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