<   2016年 11月 ( 26 )   > この月の画像一覧

3 廃藩置県
1) 版籍奉還
 新政府は戊辰戦争後、旧幕府領や幕府側に味方した諸藩の領地を没収して直轄地とし府県を置いたが、それ以外は依然として藩の支配が続いていた。しかし、列強の圧力のもとで近代国家を形成するには、中央集権体制を樹立することが必要であった。
 1869年1月、薩摩・長州・土佐・肥前の4藩主の土地と人民を天皇に返還する版籍奉還の願いを提出させ、諸藩主もこれにならうということになった。そして、全藩主を改めて知藩事に任命し、新政府から給与として家禄を与えられる地方官と位置づけられた。しかし、知藩事が家臣を持ち藩を運営することにかわりはなかった。
2) 廃藩置県
a0226578_12101888.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 新政府は、薩摩・長州・土佐3藩の兵を親兵(近衛兵)として反乱に備えたうえで、1871年7月、廃藩置県を断行し、藩を全廃して府・県を置き、知藩事は罷免して東京居住を命じ、新たに府知事・県令を任命して中央から派遣して行政にあたらせた。
 廃藩置県が円滑におこなわれたのは、すでに諸藩は財政的に行き詰まっており、藩の負債を肩代わりしたこと、藩士への家禄支給を保証したこと、さらに大規模な世直し一揆を一つの藩だけでおさえることが困難になっていたためである。
a0226578_12112148.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 地方行政組織の整理
 これによって、1869年に蝦夷地に設置していた開拓使とあわせて、地方行政組織は府(東京・京都・大阪)、県、開拓使の三つに整理された。最初に3府302県が置かれたが、大幅な分離統合によって、1888年には3府43県となった。
4) 中央官制の改革
 さらに政府は中央官制の改革をおこない、太政官の下に正院(せいいん)・左院・右院を置き、正院のもとに各省をを置くように改め、太政官の権限を強化して中央集権的な官僚機構を調えた。これにより三条や岩倉らの一部の公家のほか、大久保・木戸・板垣・大隈ら薩長土肥の旧藩出身者らが中央政府を構成するようになった。
[PR]
2 天皇権威の確立
1) 五か条の誓文
 1868年3月14日、旧幕府征討の軍勢が江戸に向かいつつある時に、五か条の誓文を発して新政府の基本方針を示した。これは政局の動揺をおさえ、公家・諸侯・諸藩士を新政府のもとに結集させるために出され、公議世論の尊重と開国進取の方針を明らかにし、天皇が国の中心であることを国内に示したものであった。さらに同年4月、政体書を発布して太政官を中心とする中央官制を調えた。
a0226578_9545034.jpg
(三省堂「日本史B」より)
a0226578_9555223.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
a0226578_9564052.jpg
(三省堂「日本史B」より)
2) 宗教政策
 古代の王政に復古する立場をとる新政府は、太政官のなかに神祇官(じんぎかん)をおき、神道を国教とする方針を打ちだし、1868年3月には神仏分離令を出して、古代以来の神仏習合を禁止した。このため、全国で廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の動きが進み、仏像の売却や寺院の破壊がおこなわれた。
3) 東京遷都
 新政府は年号を明治と改めて、天皇1代に1元号とする一世一元の制をたて、江戸を東京として1869年には東京遷都を断行した。1870年には神道を広めるために大教宣布(だいきょうせんぷ)の詔を出し、翌年には神祇官のもとに全国の神社を組織化した。また天皇の存在を広く知れわたらすために全国巡行をおこなった。
a0226578_9584982.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
[PR]
 Ⅲ 統一国家の形成
1 戊辰戦争
1) 戊辰戦争
 1868年1月、会津・桑名両藩を中心とする旧幕府軍と薩長両藩を中心とする新政府軍との間で、鳥羽・伏見の戦いがおこり、ここに全国をまきこむ内戦へと発展したが、これを戊辰戦争と呼ぶ。
 新政府軍が鳥羽・伏見の戦いに勝ち、慶喜が朝敵となると、西国の各藩は新政府に服従した。また新政府は幕府と結んだ条約を引き継ぐことを宣言し、列強に中立の立場をとることを約束させた。新政府軍は、江戸へ引きあげた慶喜を追って征討の軍をおこし、各地で旧幕府側の勢力破り江戸に攻めくだった。しかし、すでに慶喜は恭順の意を示し、同年4月新政府軍は戦うことなく江戸城を接収した。
 さらに奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)を結んで新政府軍に抵抗した東北諸藩を激戦の末に打ち破り、翌年には箱館の五稜郭にたてこもっていた榎本武揚(えのもとたけあき)らを降伏させ、ここに戊辰戦争はおわりをつげ、国内の統一が達成された。
a0226578_10512182.jpg
(東京書籍「図説日本史」より)
a0226578_10522367.jpg
(東京書籍「図説日本史」より)
2) 新政府の政策
 農民のなかには、みずから草莽隊(そうもうたい)と呼ばれる義勇軍を組織して旧幕府軍と戦う者もおり、関東・北陸・東北では戦争反対や年貢半減を要求する一揆がしばしば起こった。1868年と翌年にかけて一揆や打ちこわしが最高潮に達し、各地で世直しを期待する気運が高まったが、1868年、3月、新政府は五榜の掲示出して、徒党や強訴・逃散、キリスト教の信仰などを禁止し、幕府と同じように民衆を統制する方針を示した。
a0226578_1052573.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
a0226578_10533111.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
[PR]
5 江戸幕府の滅亡
1) 明治天皇の即位
 1866年、討幕には反対していた孝明天皇が急死し、翌年、1月、わずか満14歳の明治天皇が即位すると、朝廷内にも反幕府勢力が台頭した。
 幕府では、15代将軍となった徳川慶喜が、フランスの協力で幕政改革を断行したが、幕政の立て直しは困難であった。
2) 民衆の動き
 世相も、この頃には極めて険悪になっていた。1866年頃から各地の農村では、百姓一揆が盛んになり、なかには世直しを唱えるものもあった。また、江戸・大坂の市中には打ちこわしが頻発し、さらに、1867年の夏頃から東海地方から中国・四国地方にかけて「ええじゃないか」と呼ばれる民衆の乱舞がおこったが、このような混乱のうちに、討幕運動が進められていった。
a0226578_9402188.jpg
(三省堂 日本史B」より)
3) 大政奉還
 武力討幕の気運が高まるにつれ、坂本竜馬は同じ土佐藩出身の後藤象二郎とともに、前藩主山内豊信(とよしげ)をつうじて、慶喜に大政奉還を建白した。慶喜はこれを受け入れ、1867年10月14日、朝廷に大政奉還を上表した。
4) 討幕派のクーデター
 一方、武力討幕派は、同じ日に討幕の密勅を手に入れ、12月9日、薩摩・長州藩だけでなく、土佐・越前・尾張の3藩の兵を動かして宮廷を包囲し、王政復古の大号令を出して新政権を樹立した。そして、幕府の返上や将軍職の辞退、摂政・関白などの官職の廃止を承認し、天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を設け、雄藩連合政権が樹立された。その夜開かれた三職による小御所会議で、慶喜を会議に呼ばずに慶喜の官位や領地を天皇へ返還させることが決められた。
a0226578_9442378.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 そのため、新政権のなかで重要な位置につくことを期待していた慶喜は、新政権と武力で争わなければならなくなった。
 
[PR]
 私たちのバスはマラムレシュ地方の森を越えてハンガリー国境近くのサトゥ・マーレまで進み、そこで昼食をとった。
a0226578_9203757.jpg
(マラムレシュ地方の森)
a0226578_9291458.jpg
(トキトゥーラ)
 昼食はトキトゥーラというメニューで、豚肉にソースを絡めた料理で地域ごとに調理法が違うらしい。
 バスは午後3時20分にハンガリーとの国境に到着した。私たちはハンガリーのバスに乗り換えたが、ハンガリーのガイドはラスロさんだった。
a0226578_9451641.jpg
(ハンガリーガイドのラスロさん)
 国境での入国手続きが30分ほどで終わり、午後3時50分にバスはブダペストに向けて出発した。
 ルーマニアを去るにあたり、ルーマニアガイドのイレーナさんが話してくれたルーマニアの歴史をここでまとめておきたい。
 ルーマニアの語源は「ローマ人の国」という意味から来ており、バルカン半島でラテン人が形成した国である。しかし、この地域の歴史はもっと古く、紀元前8世紀にはインド・ヨーロッパ語族のダキア人がこの地域で活動していた。
 その後、2世紀の初めにローマ帝国のトラヤヌス帝がドナウ川を越えてダキア人を支配し属州とする。やがてダキア人はローマ人と混血しローマ化が進み、これが今のルーマニア人の直接の祖先となる。その後、スラヴ系民族の移住、さらにブルガール人の支配下に置かれるが、ラテン民族の特色は残った。10世紀頃になるとこの地方は、ワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアの3ヵ国にまとまっていく。このうちトランシルヴァニアは早くからハンガリーの支配下に入るが、ワラキア・モルダヴィアは13世紀にタタールの支配下に入る。しかし、14世紀になるとタタール人を退けワラキア公国・モルダヴィア公国となる。
 15世紀になるとオスマン帝国の侵入が進み、これに抵抗したワラキア公国のヴラド3世は民族の英雄とされている。しかし、16世紀にはバルカン半島はオスマン帝国の完全な支配下に入る。
 18世紀になるとオスマン帝国の支配が弱まり、1861年にワラキア公国とモルダヴィア公国が統合してルーマニアが自治公国として成立する。1877年の露土戦争でロシアと共にオスマン帝国と戦い、1881年にルーマニア王国を宣言してカルロス1世が即位する。これ以後の歴史は以前に紹介したので省略する。
 私たちのバスがブダペストに到着したのは、ハンガリーの現地時間(ルーマニアより1時間もどる)で午後7時(ルーマニア時間では8時)を過ぎていた。
 ハンガリーの夕食はビアホールでの生演奏つきの食事であった。
a0226578_10564348.jpg
(ビアホールでの生演奏)
 夕食の後、私たちはバスでホテルへと向かったが、サービスでブダペストの美しい夜景を車窓から見せてくれた。
a0226578_1115532.jpg
(ブダペストの夜景)
a0226578_1125495.jpg
(くさり橋)
a0226578_1154954.jpg
(国会議事堂)
a0226578_1184490.jpg
(マーチャーシュ教会)
a0226578_1192229.jpg
(聖イシュトヴァーン教会)
 私たち夫婦は2年ほど前にハンガリーに来ており、ブダペストの夜景は懐かしく、何度見てもここの夜景は美しいものであると感じた。
 私たちは翌朝、午前6時30分にホテルを出発し、空港へと向かった。飛行機はブダペストを午前9時35分頃にフランクフルトへ飛び立ち、さらに午後1時30分にフランクフルトから関空へと向かった。関空に到着したのは10月19日(水)の午前7時20分頃であった。
 以上で「ブルガリア・ルーマニア旅行記」は終わりです。長い間ブログを読んでいただいてムルツメスク(ルーマニア語でありがとう)、それでは皆さん ラ レヴェデレ(ルーマニア語でさようなら)。
[PR]
 マラムレシュの木造教会を見学した後、私たちはバスでバイアマーレのホテルへと向かった。距離は約120㎞、所要時間は約3時間で、バイアマーレのホテルには午後7時45分に到着した。
(観光7日目)
 10月18日(火)午前8時30分、私たちはバスでバイアマーレのホテルからサプンツァへと向かった。距離は約80㎞、所要時間は約1時間30分である。
 マラムレシュ地方のきれいな森を通って、私たちはサプンツァへとやって来た。
a0226578_973994.jpg
(マラムレシュ地方の森)
 サプンツァには「世界一陽気な墓」があり、私は以前テレビ番組でこの墓を見たことがある。ルーマニア観光局によると、「村にある世界一陽気で明るい墓と称されるこのカラフルな墓に、毎年3万人もの観光客が訪問している。墓が観光地になるのも珍しく、また木製の墓標には故人の生前の生活や職業、嗜好品、死因などがユニークに描かれている。死の暗いイメージを吹き飛ばす面白い墓がある。」と紹介している。
 現地ガイドのイレーナさんによると、スタン・イオン・パトラッシュという村人が1935年頃からユーモラスな絵を墓標に描き始め、彼の死後も弟子が後を継いでいるとのことだ。
 墓には死んだ人が人生で何をしていたのか、どのような職業であったか、なぜ死んだのかなどが分かるように描かれているのだそうだ。
a0226578_9501828.jpg
(陽気な墓)
a0226578_948957.jpg
(スタン・イオン・パトラッシュの墓)
a0226578_9542412.jpg
(仲の良い夫婦)
a0226578_9574527.jpg
(レンガを積んでおり建築関係の仕事か)
a0226578_1015128.jpg
(警察官か)
a0226578_1042336.jpg
(左は木こりで、右は織物を作る仕事か)
a0226578_10144159.jpg
(トラクターに乗っているので農民か)
a0226578_10204373.jpg
(交通事故で亡くなった女性)
a0226578_10255196.jpg
(糸を紡ぐ女性)
 墓地の近くには立派な教会があった。
a0226578_10273459.jpg
(立派な教会)
 サンプツァの「陽気な墓」を見学した後、私たちはバスで今回のツアーの最終地であるブダペストへと向かった。ブダペストへは距離で約410㎞、所要時間は約6時間の予定である。
 

 
[PR]
 スルデシュティの木造教会内での写真撮影は禁止されていた。そこで、この教会で販売されていた10ヵ国対応のパンフレットを使ってこの教会を案内していこう。
a0226578_11222946.jpg
(パンフレットの表紙)
a0226578_11232490.jpg
(木造教会とその周辺)
 パンフレットの日本語訳にはよく分からないところがあるが一応解説通りに案内しよう。
 「マスターイオン・マカリエの指導で、村のギシリャ・カトリックコミュニティによって1721年に建てられた。この教会はオークの木で造られて、その期間の建物の中で非常に印象的である。多角形の廊と祭壇の後陣で、長方形である。主塔は4つの小さい塔に囲まれ、その期間でこの教会は世界で最も高い建設であった。内部は石の大スラブと舗装されている。壁画は18世紀後半に様々な芸術家に描かれ、その中で一番有名なのはステファン・ズグラブである。イコノスタスで最も目立つのはバロック様式の影響である。建築のすべての要素を組み合わせることで、この木造教会は画家的な建物になっている。1999年に世界遺産リストに登録された。」とある。
a0226578_11365380.jpg
(木造教会)
 スルデシュティの木造教会の高さは、『地球の歩き方』には72mとあり、ルーマニア観光情報局には54mと書かれていおり、イレーナさんは31mと言っていた。
a0226578_1141360.jpg
(屋根)
 「屋根は教会全体の輪郭上の二重庇があり、窓は上の栄誉にカットされている。右側、祭壇の外から詳細は、どこに木片を組み合わせている最善の方法が見られる。」と書かれているが、意味がよく分からない。
a0226578_11394125.jpg
(ポーチ)
 「立派なスタイルに造られているポーチ、2つのレベルに位置しており、形状が似ている異なる開口部がある。」と書かれているが、これもよく分からない。
a0226578_11481965.jpg
(最初の部屋ーナルテックス(玄関間)
 「中央の身廊から分類される壁の窓は1932年のみ切り調えられていた。」とあるが、よく分からない。
a0226578_11542520.jpg
(ナルテックスの絵画)
 「普遍的な判断;入口のドアの近くに夜警員;疑うトーマス」とあるが、よく分からない。
a0226578_11574684.jpg
(壁画)
a0226578_11582245.jpg
(ロイヤルドア)
a0226578_11594045.jpg
(神聖な三位一体)
a0226578_12153.jpg
(壁画 ヤコブの夢の階段)
 なぜ木造教会が造られたのかと、イレーナさんに質問すると、素材つまり木がたくさんあるからだと答えられた。しかし、ウィキペディアによると「この地方の有名な木造聖堂群は、以前に建てられていた聖堂の敷地に、17世紀から18世紀にかけて建造されたものである。その背景にあったのは、ルーマニア正教会の聖堂を石で建造することを禁じられたことへの反発である。」と書かれている。やはり私が考えていた通りで、当時カトリック教徒が多いハンガリーの支配下にあって、ルーマニア正教会を石造で建設することが禁じられていたことが大きな要因ではないかと思われる。イレーナさんによると、木造教会の宗派はルーマニア・カトリック教会といい、ルーマニア正教会とカトリック教会をミックスした独特の宗派であると言っていた。カトリック系の強いハンガリーの支配にあって、ルーマニア正教会の人達が自分たちの信仰を続けていくためにカトリックをある程度受け入れて、このような独特の宗派を生み出したのではないかと思われる。
 木造教会の見学を終えてバスに戻る途中で、ブタを飼っている農家を見つけた。
a0226578_12172064.jpg
(ブタを飼っている農家)
[PR]
(観光 6日目) 10月16日(日) 
 私たちが宿泊したのは「カサ・ワーグナー」というホテルで、『地球の歩き方』に、「旧市街中心にある広場に面したホテル。19世紀に建てられた家を改装しており、客室はアンティーク調の家具を使って当時の雰囲気を再現している。」と載っている。
a0226578_1075888.jpg
(「カサ・ワーグナー」というホテルの名前が見える)
a0226578_9595741.jpg
(ホテルの中庭)
 私たちは午前8時30分にバスでマラムレシュ地方へと向かったが、シギショアラから距離で130㎞もある。
 ルーマニアには高速道路は2本しかなく、目的地にはかなりの時間がかかった。途中、トゥルダという町を通ったが、古代にダキア人によってつくられた町で、ローマによって征服された。その後、ハンガリーの支配下に入り、11世紀には岩塩抗で有名となった。
a0226578_110530.jpg
(トゥルダという町)
 さらに私たちはレストランで昼食をとった後、クルージ・ナプカというルーマニアで第3の人口をもつ大きな町に入った。私たちはこの町の車窓見学をした。
a0226578_119489.jpg
(聖ミハイ教会)
 この教会はゴシック様式のカトリック教会で15世紀に完成した。教会の側に騎馬姿のハンガリーのマーチャーシュ王の像があった。
a0226578_111319100.jpg
(マーチャーシュ王の騎馬像)
 騎馬像の周りにルーマニアの国旗を持った人達が立っていたが、イレーナさんによると、ルーマニアの民族主義者が抗議しているところであるという。トランシルヴァニアやマラムレシュ地方は長らくハンガリーの領地であったところで、第二次世界大戦後にルーマニアの国土となった。そのためここにはハンガリー系の人達が多く住んでおり、ハンガリー語や文化が残っている。その象徴がマーチャーシュ王の騎馬像であり、これに反発した人達の抗議行動であるらしい。
 ルーマニアの国旗はブルーとイエローとレッドだが、ブルーは青い空の色、イエローは夏の畑の色、レッドは血(独立のために流した血)の色をあらわしている。
 ところで、私たちが観光したトランシルヴァニアとは、シルヴァニア(森)をトラン(移動する)という意味である。また、マラムレシュの語源はマーラ川とムレッシス川を合わせてマラムレシュとなったとイレーナさんは教えてくれた。
 バスがマラムレシュ地方の木造教会群に着いたのは午後4時をかなり過ぎていた。
a0226578_11374692.jpg
(木造教会)
 私たちが見学したのはスルデシュティの木造教会である。夕方で雨が降っていたこともあり写真撮影には最悪の状態であった。
a0226578_11414447.jpg
(木造教会)
 ルーマニア観光情報局によると、「マラムレシュ地方には独特の木造建築文化が残り、特に教会はその特徴をよく伝えています。建物全てが木造で、基礎の石もありません。屋根は高く、長く四角いとんがり帽子のような形をしています。内部はきわめて質素ですが、木の柱や棟には太陽や綱などの模様の彫刻が施され、レースのような軒、魚の鱗のようにカットされた木の屋根瓦も特徴的。壁には布地の絵画が貼られ、聖書の物語から村びとの日常の生活風景までさまざまなものが描かれています。」とある。
 さらにスルデシュティの木造教会について「ヨーロッパの木の教会の中で、最も高い標高にある教会です。1721~1724年に完成。名前の意味は「大天使」。建物の高さは54mです。内部には、布絵が掲げられています。構造を支える棟木には太い樫の丸太を使用。長さ16mのベランダや二重式屋根、尖塔の下部の小さな4つの塔がユニークです。」とある。
a0226578_11474059.jpg
(木造教会)
 教会の周りに墓地あった。
a0226578_11493487.jpg
(教会の周りにあった墓地)
a0226578_11505248.jpg
(教会の周りにあったお墓)
[PR]
 吸血鬼ドラキュラのモデルとなったヴラド・ツェペシュの正式名はワラキア公ブラド3世である。ツェペシュというのはルーマニア語で「串刺しにする者」という意味で、ブラドは敵の使者を平気で生きたまま串刺し刑にしたのでニックネームとしてそう呼ばれたのである。現地ガイドのイレーナさんによると彼の生涯は波瀾万丈であった。
 ヴラド3世は1431年、シギショアラでヴラド2世の次男として生まれた。ヴラド2世の父親はヴラド1世で私たちが訪れたブラン城を居城とした人物であり、ヴラド3世の祖父に当たる。3世が生まれた年に、父ヴラド2世は神聖ローマ帝国からドラゴン騎士団の騎士に叙任された。ドラキュラのドラクルという名はこの竜騎士団の竜(ドラコ)に由来する。1444年、ブラド2世はオスマン帝国との戦いに敗れブラド3世は弟ラドゥと共にオスマン帝国の捕虜となり、トルコへ行った。1447年、ブラド2世と長男が暗殺されたが、その背景にはハンガリーの有力者ヤーノシュが3世の又従兄弟であるヴラディスラフをそそのかして、彼をワラキア公にしたといわれている。これに対し、3世はワラキアの支配をもくろむオスマン帝国の支援で、ヴラディスラフを倒しワラキア公の地位に就いた。しかし3世は2か月でヤーノシュに敗れてモルダヴィアへ亡命する。
 1451年、3世は亡命先のモルダヴィア公が暗殺されると、今度はヤーノシュのもとに身を寄せ、彼の支援で1456年にワラキア公に返り咲いた。1459年、3世はワラキアの大貴族を倒して中央集権化を進め、オスマン帝国への貢納を拒否する。オスマン帝国はワラキア公国に使者を派遣して貢納を要求すると、3世は使者を生きたまま串刺し刑にした。オスマン帝国はワラキア公国に軍隊を派遣したが、3世はゲリラ戦法で抵抗してオスマンの軍隊を撃退し、捕らえた兵士を次々に串刺しにした。
 1462年、オスマン帝国は3世の弟を支援し、3世から離反した貴族を糾合して3世の追い落としに成功する。3世はトランシルヴァニアに落ちのびたが、ここを支配するハンガリー王の幽閉の身となる。1474年、3世は12年間の幽閉から解放され、ハンガリーのマーチャーシュ王の妹と結婚し、東方正教会からカトリックに改宗する。そのため3世は東方正教会を信仰するワラキアの民衆の支持を失ったといわれている。しかし、ハンガリー王の支援を受けて1476年、3世は3度目のワラキア公に返り咲いたが、同年、オスマン帝国と戦って戦死した。オスマン帝国軍は、彼の首を塩漬けにしてイスタンブールに持ち帰って晒したという。
 ヴラド3世がドラキュラのモデルとなったのは、父がドラクル(竜)であり、竜の子と呼ばれたことに由来する。聖書では悪魔は蛇や竜として描かれることが多く、後世では竜公であるはずのドラクルは悪魔公と呼ばれ、ドラキュラ公である3世は悪魔の子と呼ばれた。それが、後の串刺し公としての3世のイメージからドラキュラが「悪魔の子」と解釈されるようになったのである。このイメージが吸血鬼ドラキュラ伯爵へと発展していく。
a0226578_1049102.jpg
(ブラド3世の像)
 私たちはブラド・ツェペシュの生家だったレストランでの夕食後、レストランの2階に上がったが、そこには、中世の武具やブラド3世の像などドラキュラに関するものが展示されていた。
a0226578_1058297.jpg
(武具)
a0226578_1105791.jpg
(ドラキュラが眠る棺桶)
 ここからスタッフが起き上がってみんなを驚かすことになっているが、時間が遅かったためドラキュラを演じるスタッフはいなかった。
a0226578_113528.jpg
(ブラド3世の像)
a0226578_1145279.jpg
(ブラド3世の肖像画)
a0226578_118294.jpg
(ブラド3世の像)
a0226578_11123015.jpg
(ルーマニアの古い地図)
a0226578_11133321.jpg
(お客さんを驚かす衣裳か飾りか)
 遅れてレストランのスタッフがやって来た。
a0226578_11101498.jpg
(レストランのスタッフ)
 彼がドラキュラの役を演じてお客さんを驚かしているのだろうか。
a0226578_11152953.jpg
(ブラド・ツェペシュの生家だったレストラン)
a0226578_11171470.jpg
(レストランに描かれてあった壁画)
[PR]
 私たち夫婦は夕食までの自由時間の時に山上教会へと登ることにした。旧市街から山上教会へは、屋根つきの木造階段を上がっていく。
a0226578_918145.jpg
(屋根つきの階段入口)
a0226578_9195565.jpg
(屋根つきの階段)
 175の階段をあがって丘の上に立つと、シギショアラの旧市街から新市街がきれいに見えた。
a0226578_9344589.jpg
(新市街の家々)
 新市街にはきれいな教会が見えたが、あれはルーマニア正教会である。
a0226578_9401977.jpg
(ルーマニア正教会)
 手前の旧市街には壊れかけた家々が見えた。
a0226578_9454047.jpg
(旧市街の家々)
 山上教会は時間が遅かったため閉まっていた。
a0226578_9482696.jpg
(山上教会)
 山上教会の正式名は聖ニコラウス教会である。1345年には記録にあらわれているが、完成したのは1525年である。トランシルヴァニア地方のゴシック建築の中で代表的な建物として評価されている。建設当初はカトリックの聖堂だったが、1547年にルーテル派の教会堂となった。教会のそばには地元の名士達が眠る共同墓地があった。
a0226578_9561175.jpg
(共同墓地)
 私たちの夕食のレストランは、吸血鬼ドラキュラのモデルとなったブラド・ツェペシュの生家だったところである。
a0226578_1085198.jpg
(ブラド・ツェペシュの生家だったレストラン)
a0226578_10104624.jpg
(ブラド・ツェペシュの生家だったレストラン)
a0226578_1012795.jpg
(ブラド・ツェペシュの生家だったレストラン)

 

 
[PR]