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(観光5日目)
 昨日は1日移動日で夜も遅かったので、今日の観光の始まりは午前11時と遅い。そこで私は友人と朝食後に散歩へと出かけた。私たちのホテルはブエノスアイレスの有名な7月9日大通りに面しており、散歩するには比較的分かりやすい場所である。しかし、昨日紹介された現地ガイドの隈部さんの話しでは、ホテルを出て右方面には危険なので行かないでくれと注意された。ブエノスアイレスは南米のパリと呼ばれるほど美しい町で治安も良いと思っていたが、やはり南米の都市はどこも安全なところはないのであろうか。
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(現地ガイドの隈部さん)
 隈部さんは日系アルゼンチン人で小学生のお孫さんがいる元気な女性であった。ブエノスアイレスはスペイン語でブエノスとは良い、アイレスは空気だからきれいな空気の町という意味だと隈部さんは教えてくれたが、ネットで調べてみると、アイレスは風という意味もあり、良い風つまり船乗りが望む「順風」が町の名前になったそうだ。この町はラプラタ川に面しているが、ラプラタ川とは銀の川という意味でここから銀が大西洋へと運ばれたのであろうか。首都ブエノスアイレスだけの人口は約300万人であるが、周りの都市を含めた大ブエノスアイレス都市圏の都市人口は1430万人である。
 ところで7月9日大通りの名前は、アルゼンチンの独立記念日である1816年7月9日にちなんでいる。隈部さんによると、大通りの一番広い道路の幅は147mで22車線もある。
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(7月9日大通り)
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(7月9日大通り)
 私たちは隈部さんの注意に従って、ホテルを出て左側の道路を歩いた。15分ほど歩いていると公園があり、そこには銅像が立っていたが、第4代アルゼンチンの副大統領アドルフォ・アルシナである。
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(アドルフォ・アルシナの像が置かれてある公園)
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(アドルフォ・アルシナの像)
 私たちはさらに10分ほど歩いていると立派な建物が目に入った。通りを歩いていたきれいな女性に英語で聞いてみると、フランス大使館であると教えてくれた。
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(フランス大使館)
 さらに10分ほど歩いていくとブラジル大使館が見えた。
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(ブラジル大使館)
 ブラジル大使館の近くには公園があり、また銅像が立っていたが、アルゼンチンの第11代大統領カルロス・ペレグリニである。
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(カルロス・ペレグリニの像)
 ブラジル大使館のある地域はレコレータ地区と呼ばれ、立派な建物が立ち並んでいた。
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(レコレータ地区の豪邸)
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(レコレータ地区の豪邸)
 私たちはかなり歩いたので7月9日大通りに戻り、ホテルを目指して歩いたが、ホテルの近くには目標となるオベリスコがあるので分かりやすかった。
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(オベリスコが遠くに見える7月9日大通り)
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(オベリスコ)
 オベリスコは古代エジプト時代に神殿などに造られた記念碑であるが、現在は世界中どこにでも見ることが出来る。オベリスコの近くに現代風のモニュメントが置かれていた。
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(現代風のモニュメント)
私たちは長い散歩からホテルに戻り部屋で少し休息した。
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 私たちはマチュピチュ遺跡の見学を終えてシャトルバスでマチュピチュ村へと戻ったが、村に到着したのは正午頃だった。
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(マチュピチュ村に到着)
 私たちは駅の近くのレストランでランチを食べたが、レストランの2階から列車がよく見えた。
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(レストランの2階から見た列車)
 レストランで食事をしていると雨が降ってきた。午前中に雨だったらマチュピチュ遺跡の見学も大変だったので、私たちは本当にラッキーだった。しかし、ツアー参加者でいつも山登りをしている人が言うのには、山は午前中は晴れていて、午後に雨が降る確率が高いらしい。だからこの村に泊まって午前中に遺跡を見学するこのツアーは正しくて、オリャタイタンボなど遠くに宿泊してマチュピチュ遺跡を見学するのは良くないらしい。
 私たちは食事を終えて列車の乗車時間まで少し散歩をした。
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(駅近くを散歩)
 村にはウルバンバ川が流れている。
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(ウルバンバ川)
 私は朝に散歩したアルマス広場へ向かった。
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(アルマス広場)
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(列車の時間待ちをしている乗客達)
 私たちは列車でオリャタイタンボまで行き、そこから再び専用バスでクスコへと向かった。私はクスコからオリャタイタンボへ行くバスに酔ったので、帰りのバスでは用心して酔い止めの薬を飲んだ。途中、トイレ休憩の時に近くのお店で売っていたジャンボコーンを、現地ガイドのマリソルさんから少し試食させてもらった。
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(ジャンボコーン)
 味は薄味で日本で食べるコーンの方が美味しいように感じた。しばらくバスに乗っていると、マリソルさんが珍しいカプセルホテルが岩の上にありますと教えてくれたので、バスを降りて写真に撮った。
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(岩の上のカプセルホテル)
 クスコのホテルには午後6時頃に到着した。

(観光4日目)
 1月16日(月)午前5時30分にホテルを出発し、専用バスで空港へと向かった。
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(クスコの空港前)
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(クスコの空港から見た景色、ここにはもう戻ってこない)
 この日は丸1日移動日である。私たちは7時25分にクスコ空港から飛び立ち、リマに9時に到着した。その後リマの空港を11時50分に飛び立ち、18時20分にアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに到着し、バスでホテルへと向かった。ペルーと日本との時差は14時間(日本が14時間進んでいる)、アルゼンチンと日本との時差は12時間なので、私たちがブエノスアイレスに着いたときは2時間時計の針を進めなければならなかった。
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(ようやくブエノスアイレスに到着)
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 マチュピチュ遺跡は、マチュピチュ山とワイナピチュ山との間の尾根に造られたものであるが、現在ワイナピチュに登るのには1日400人に限られていると現地ガイドのマリソルさんが教えてくれた。
 マチュピチュ遺跡にも原住民と思われる観光客が来ていた。
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(原住民の観光客)
 私たちは次に天体観測の石を見に行った。
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(天体観測の石)
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(天体観測の石)
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(天体観測の石)
 「美しい石組みの建物内にある直径60㎝ほどのふたつの石。ハイラム・ビンガムが子供に連れられてマチュピチュにたどり着いた際、子供がこれは石臼だよと石をのせて説明したことから、長い間、石臼と信じられていた。その後の研究で、天体観測をするためのものだと分かった。水を張り、夜に月や星の軌道を観察したのである。ふたつのセットになっているのは、インカの二元性を表している。」(『地球の歩き方 別冊』より)さらに『ペルーとマチュピチュへの誘い』によると、「北側にあるもの(水鏡)は春分と秋分を観測するのに使用され、他方の水鏡は冬至を察知するのに用いられた。これらの二つの水鏡の直径を直角に結ぶ軸は、正確に北極と南極を指しており、磁石の役割を果たしている。」と書かれている。
 次に私たちはコンドルの神殿へと向かった。
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(コンドル神殿の翼の部分)
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(コンドル神殿) 
 「自然石を巧みに利用してコンドルが飛んでいる様が表現されている。この場所は宗教的な目的と同時に、太陽が天頂に来る4月20日から24日の間と8月16日から20日にかけての期間の日の出と関連した天体観測に用いられた場所であったと考えられる。」(『ペルーとマチュピチュへの誘い』より)
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(コンドルの頭の部分)
 「東向きのコンドルの頭は、いけにえのリャマを捧げた儀式の石」(『地球の歩き方 別冊』より)
 私たちはコンドルの神殿から段々畑(アンデネス)へと歩いた。
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(段々畑)
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(段々畑)
 段々畑にはリャマがいた。
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(リャマ)
 私たちは段々畑の道を通って元の遺跡の入口にたどり着き、約3時間のマチュピチュ観光を終えた。
 さて、マチュピチュ遺跡は前にも触れたが、インカ皇帝第9代パチャクテックの時代から120年間かけて造られ、800人から1500の人達が住んでいたと推測されている。ところでこの強大なインカ帝国はスペイン人のピサロが率いる百数十人によって滅ぼされてしまった。その理由は一体何か、『ペルーとマチュピチュへの誘い』ではその要因を次のようにまとめている。①アタワルパは彼の生来の好奇心と過剰なまでの自信が、戦いにおける征服者達の卓越した戦闘技術や戦略を見抜くことが出来ず、その侵攻を妨げることはおろか、やすやすと侵入させてしまい、その結果、最初の戦闘でインカ王朝はその終焉を迎えてしまったこと。②スペイン人達は王位継承者としてのワスカルとアタワルパの間に起こった内戦と修復しがたい相反状態にあったインカ帝国の状況を巧妙に利用し、立ち回ったこと。③インカによってすでに征服されていたいくつかの民族集団は、スペイン人の到来を利用し、みずからの主権を回復するために彼らに与したこと。したがって、このこと自体がインカ帝国内の民衆の統合が、まだまだ道遙かな状況にあったことを示しており、さらには、インカの覇権が全て盤石なものではなかったことを示している。④アンデス人相互間の過去の紛争の火種を掻き立てて、新たな争いを発生させたこと。⑤1520年代以降、スペインによる征服の前後に猛威を振るった原因不明の疫病の流行。⑥スペイン征服軍の多くの兵士が豊かな実戦経験を有していたこと。⑦スペイン人達が、アンデス住民の性向と当時の諸状況を考慮して、戦いのための策略を詳細に検討し計画していたこと。⑧スペイン人の凶暴さと残酷さが知れ渡り、アンデス人は常に、協力者となるか反乱者となるかの間で躊躇していたこと。以上である。
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(征服者ピサロ)

 
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 次に私たちは主神殿へと向かった。
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(主神殿)
 「この神殿は帝国インカ様式として知られる最も繊細な建築様式のひとつを備えている。建物が向いている方角から、恐らくは星座の観測場所であったと考えられ、この場所からは天の川の大半部分と、とりわけ南十字星が観察できる。更には、水を供給する神であるアプ・サルカンタイとアプ・マチュピチュに捧げられた神殿であったと考えられる。この神殿が呈している不整合と東に向かってやや傾斜しているのは、雨水が浸み込んで岩が自重でずれたことによるものである。」(「ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 聖なる広場には大勢の観光客であふれていた。
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(聖なる広場)
 広場の右上の方に石切場がある。広場の中でみんなが腰掛けている石は「運搬され彫刻を施される途中の石」(前掲書)である。
 聖なる広場から少し歩くと珍しい石があった。
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(聖なる石)
 この聖なる石はワイナピチュなどの山々と似た形をしていることで重要視されている。
 次に私たちはインティワンタナと呼ばれる日時計の石を見学した。
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(インティワンタナ)
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(インティワンタナ)
 「インカ時代においては、この種の装置は天文学的な標石を意味するサイワあるいはスカンカとして知られていた。垂直、水平あるいは斜めといった多くの平面と角を用いて、元からそこにあった岩に浮彫にされた、宗教的かつ天体観測の道具であり、太陽や月の光で照らされて映し出される影は、暦の上で様々な意味を持つものと解釈されていた。・・・インティワンタナの垂直な突起部分は、太陽が頂点にくる瞬間に投影する影がなくなるが、この現象は平均して2月14日と10月30日に起こる。同様に、北側にある水平な突起部分は、太陽が天頂をよぎる瞬間には、その同じ長さを保ちながら、下方部分に影を投影する。」(前掲書)
 添乗員さんからもらった地図では、インティワンタナから下部市街地へと向かうはずであったが、そこには向かわずに短縮してコンドルの神殿へと向かった。
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(下部市街地が見える)
 下部市街地には二つのワイラナ(準備室)が見える。この小屋はワイナピチュの登山口付近にあり、儀式を行う前や、ワイナピチュへ登る前の準備室として使われていたようである。この下部地域には農作物の品種改良が行われた農業試験場の段々畑がある。
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(農業試験場となった段々畑)
 品種改良によって低地でしか生育しないコカの木などを、マチュピチュでも育つようになった。下部市街地にはヤナンティンという山の形をした聖なる石もある。
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 私たちは現地ガイドのマリソルさんの案内で次に太陽の神殿へと向かった。
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(上から見た太陽の神殿)
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(下から見た太陽の神殿)
 「元からあった自然石を土台ならびに祭壇として利用し、その上に造られた精巧な石組みで出来たインカ帝国様式の半円形の建築物である。更には、建物の特徴から判断して、暦と関連した天体観測の場所でもあった。北東を向いた窓で冬至を知ることが出来る。即ち、毎年6月21日には太陽の最初の光が窓から差し込み、浮彫を施した岩の上にその光の束を投影するのである。・・・また、太陽の神殿は太陽が天頂を運行するのを予測するのにも利用された。太陽の神殿に至る唯一の入口は、非常に重要な場所に見られる特有の特徴である二重の脇柱を備えており、通行を制限する物となっている。」(ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
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(太陽の神殿の門)
 門を反対側から見ると、扉が取り付けられてあったことが分かる。
 太陽の神殿の下には、大地の神殿・陵墓があった。
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(大地の神殿・陵墓)
 「太陽の神殿の下にあるという位置関係と階段状の標章が刻まれているところから、母なる大地の神パチャママと万物の起源であるパカリナに捧げられた神殿であったとされる。ビンガムがこの地に到達したときには、すでに盗掘によって荒らされていたので、この場所が実際にそのようにして使われていたという証拠はないが、恐らくはある重要な人物の遺骸を収めた場所でもあったのだろう。」(ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 太陽の神殿の裏側の壁は、同じサイズの石が重なり、マチュピチュで最も美しい壁だとマリソルさんが教えてくれた。
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(太陽の神殿の裏側の壁)
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(きれいな壁)
 太陽の神殿の横には水汲み場があった。
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(水汲み場)
 「この地の住民に水を供給するために導かれた水路で互いに繋がった16の水汲み場がある。」(ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 次に私たちは三つの窓の神殿へと向かった。
 「階段状の印が刻まれている石から、母なる大地の神(パチャママ)に捧げられた神殿であったとされる。(ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
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(階段状の印が刻まれている石)
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(三つの窓の神殿)
 「6月21日には三つの窓から太陽の光が差し込み、対象形の影を映し出して時節を知らせる役割を果たしていた。窓の外側・下部で、装飾を施された大量の陶器の破片が発見された。」(ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 聖なる広場と呼ばれているところに方位盤(石の磁石)があった。
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(方位盤)
 
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 マチュピチュ遺跡の名前の由来は山の名前から来ている。マチュとは古い、ピチュは山で「古い山」という意味のインカの人達が使用し、今でも使われているケチュア語から来ている。現地ガイドのマリソルさんによると、マチュピチュという名称の山はあの山であると教えてくれた。
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(マチュピチュという名称の山)
 「いけにえの岩」と呼ばれている石の上に少し雲に覆われている山がマチュピチュである。山の標高は3100mで日本の穂高岳(3190m)や槍ヶ岳(3180m)と同じぐらいの高さである。マリソルさんによると、あの山に登るのに往復5~6時間かかるらしい。ところで、「いけにえの岩」または「儀式の石」といわれているが、「祭礼の目的で用いられると共に、天体観測のためにも利用された。岩の東側に造られた穴は、少し傾斜しており、冬至の日の正午にのみ、卵形の光を投影する。」(『ペルーとマチュピチュへの誘い』より)
 マチュピチュ(古い山)に対して、ワイナピチュ(若い山)というのがあの山であると教えてくれた。
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(ワイナピチュ)
 私がテレビなどでよく見るマチュピチュ遺跡に必ず出てくるのがあの山で、あれがマチュピチュだと思っていた。ワイナピチュの標高は2700mで往復3時間かかるらしい。現在、あの山に登るのには許可制となっており、高いお金を払わなければ登れない。ワイナピチュをよく見てみると、今も登っている人を見ることができた。
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(ワイナピチュ)
 なぜマチュピチュ遺跡がこれほど世界中で人気があるのだろうか。それはクスコなどインカ文明の遺跡はスペイン人によって破壊されたにもかかわらず、奇跡的にインカ文明の遺跡がほぼ完全な形で保存されており、また、険しい山の上に文明が存在していたという、まさに「空中都市」とよばれるにふさわしい遺跡だからであろう。
 マチュピチュ遺跡を発見したのは1911年7月24日、アメリカ、イェール大学のラテンアメリカ歴史学の教授であり、探検家であったハイラム・ビンガムである。映画インディージョーンズのモデルとされる人物である。
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(『ペルーとマチュピチュへの誘い』より)
 マチュピチュはいつ建設されたのか。『ペルーとマチュピチュへの誘い』によると、「15世紀後半のインカ帝国の最盛期に建設されたが、マチュピチュの建設を企画し、開始したのは第9代の皇帝パチャクテックであった。それでは何の目的でマチュピチュが建設されたのであろうか。①呪術的・宗教的な中心としての役割を果たし、太陽信仰とその観察を行うための神域であった。②機能的な行政統治の中心であり、そこには公共のスペースや宗教的な礼拝所、工芸技術の習得所、居住区や農耕地帯が整えられていた。③コカやトウガラシ、薬草、羽毛、金銀などの豊富な資源によっても重要な町、④権力の中心地であると同時に交通の要所であり、高地アンデスやアマゾン地域の領土間の関係や交易を監視する場所でもあった。(前掲書より)以上のようにマチュピチュはインカ帝国のなかで重要な位置をしめていたのである。
 さて、私たちはマリソルさんの案内で遺跡の見学へと向かった。
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(段々畑)
 「段々畑から採取したいろいろな土のサンプルで行った花粉の分析により、マチュピチュの住人たちがトウモロコシ、コカ、ビラカ、キヌア、ジャガイモ、カンナ、カボチャ、ザクロ、インゲン豆、アボガド、トマト、それに薬草などを栽培していたことが判明している。耕作地であるテラス(段々畑)を造る上での、内部構造や設置場所、排水システムなどに関する建設技術のお陰で、あらゆる養分や適度の湿度を保って、肥沃な土壌を保持することができた。」(『ペルーとマチュピチュへの誘い』より)
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(市街地入口)
 「要塞のような石壁で囲まれた市街地の正門だったところで、門の高さは2m20㎝。門の上には3トンもの大石が渡されている。」(『地球の歩き方 別冊』より)
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(カリャンカと呼ばれる休憩所)
 「マチュピチュ内にはいくつかのカリャンカが設置されている。マチュピチュに食料などを持ってきた訪問者が、利用した。」(『地球の歩き方 別冊』より)
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(作業小屋)
 「建材の石の加工が行われていたとされる場所。職人たちが住んでいたと思われる。」(『地球の歩き方 別冊』より)
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(石切場)
 「石材を供給する役割を持つと同時に、この都市が放棄されたときには何らかの建物を建築中の場所であった。」(『ペルーとマチュピチュへの誘い』より)
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(マチュピチュ遺跡)
 
 
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(観光3日目)
 1月15日(日)午前8時にホテルのフロントに集合だが、まだ少し時間があったので1人でホテルの前を散歩した。
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(マチュピチュ村のホテルの前)
 ホテルは「エル・マピ」という名前で、「マチュピチュ村中心部で最も規模の大きなホテル。木を使ったモダンな外観で、広い敷地に2~4階建ての5棟の建物がある。」と『地球の歩き方には』に書かれている。ホテルの前の坂を下っていくとアルマス広場があった。
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(ホテルの前の坂)
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(アルマス広場)
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(アルマス広場)
 前にも書いたが、アルマス広場はペルーだけでなく南米の各地にある。中央に置かれている人物像はインカ帝国第9代皇帝パチャクテックである。
 私たちは午前8時前にホテルを出発し、歩いて1~2分でマチュピチュ行きのシャトルバス乗り場に着いた。バス乗り場には行列ができていた。
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(シャトルバス乗り場の行列)
 バスに乗るためには先ずチケットを購入しなければならないが、私たちのチケットはあらかじめ購入されていた。
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(チケットを購入するための行列)
 私たちはマチュピチュ村に宿泊したことによって午前中にマチュピチュに登ることができるが、他の場所からやって来た旅行客はマチュピチュへ行くには午後になってしまうだろう。私たちは15分ほど待ってシャトルバスに乗ることができた。
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(私たちが乗ったシャトルバス)
 バスは約30分でマチュピチュに到着し、私たちは有料トイレで用を足し、午前9時頃からマチュピチュを一望できる見張り小屋へと登りだした。
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(添乗員さんからもらったマチュピチュの地図)
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(見張り小屋へと向かう途中の景色)
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(見張り小屋へと向かう途中の景色)
 歩いてすぐに見張り小屋が見えてきた。
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(見張り小屋が見える)
 私たちは20分ほど歩いて見張り小屋に到着したが、そこで記念写真を撮った。
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(見張り小屋から記念写真)
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(見張り小屋)
 見張り小屋は「草を葺いて復元された建物は、クルカと呼ばれる貯蔵庫。」(『地球の歩き方』)と書かれており、『地球の歩き方 別冊』では、「マチュピチュ全体と段々畑、正面にワイナピチュ、さらにインディブンク(太陽の門)が一望できる眺めのいい高台にあることから、見張り小屋だったとされる建物。一説によると、太陽の光を反射させたりホラ貝を吹いて交信をしていたという。ワイラナと呼ばれる3つの壁で支えられる建築方法で、眺めと風通しがいいのが特徴。インカ時代と同じ、高地に自生するイチュというイネ科の植物で屋根を葺いている。」と書かれているように、ここからマチュピチュ全体が一望できる。
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(マチュピチュ全体の景色)
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(マチュピチュ全体の景色)
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(マチュピチュ全体の景色)

 

 
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 私たちはクスコから専用バスでオリャンタイタンボへと向かった。約70㎞、所要時間は約1時間20分の予定である。クスコで購入した『ペルーとマチュピチュへの誘い』という書物によると、オリャンタイタンボは「古くから人々が居住する定着の場所であった。インカ時代には、様々な役割を担った多くの人々が居住する場所であり、言い換えれば、行政管理上の中心であり、軍事的・社会的・経済的かつ宗教的な拠点であった」と書かれている。
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(クスコからオリャンタイタンボへと向かうパスの車窓から見える景色)
 バスは小型であり道路は細く曲がりくねった山道であり、しかも高山であり空気が薄いせいか私はしだいにバスに酔ってきた。
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(車窓からアンデス山脈が見える)
 私以外にもバスに酔ってきた人がおり、しかもトイレ休憩を希望した人が出たので予定にはなかったが緊急にトイレ休憩をとることになった。休憩場所から見たアンデス山脈の景色は素晴らしかった。
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(アンデス山脈)
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(アンデス山脈)
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(アンデス山脈)
 こちらの季節は夏であるが山頂には雪が見える。
 ようやくバスはオリャンタイタンボに到着しそこで列車に乗り換えマチュピチュ村へと向かった。約50㎞、所要時間は約1時間30分の予定である。
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(私たちが乗った列車)
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(列車の車内)
 私たちが乗った場所は車両の端っこでよく揺れた。列車は川の横を走っており、途中の駅には「カミノインカ」という名前が見えた。
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(川が見える)
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(カミノインカと書かれている)
 カミノインカとはインカ道のことであり、この駅からインカ道のトレッキングを開始するのであろうか。
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(インカ道が見える)
 インカ道はインカ帝国を支える 重要な役割を果たしたが、 全ての道を総合するとその距離全部で4万㎞ にも達するといわれている。
 列車ではコカ茶やソフトドリンクなどの無料サービスがあった。
列車から発電所が見えた。
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(発電所)
 列車は午後6時30分頃にマチュピチュ村に到着した。添乗員さんの話によると、今まではもっと安いホテルに泊まっていたが、今回のツアーでは私たちはこの村で一番良いホテルに泊まることができるとのことである。いよいよ明日は念願のマチュピチュの見学に向かう、明日が楽しみだ。
  
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 サントドミンゴ教会にはインカの世界観を表す金の板が展示されていた。
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(インカの世界観を描いた金の板)
 この板にはケルカが描かれている。ケルカとはスペイン人とインカの血を引くファン・サンタ・クルス・パチャクティという人物によって1613年頃に書かれたクロニカ(ペルー王国の昔の出来事に関する報告書)の中で描かれたパネルである。
 このパネルは、その大部分がインカ世界の宇宙観と宗教概念を表現しており、インカ帝国の均衡の取れた共生とその善良な政府のために、彼らの神々が命じる戒律を表している。恐らくは、クスコの太陽の神殿であるコリカンチャの一室にあったものと考えられる。(「ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
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(「ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 ハナンとは天上界、カイとは現世、ウクとは地下世界を表すインカの言葉である。この展示されている金の板はレプリカである。
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(教会の裏庭)
 教会の裏庭は、冬至の日のお祭りであるインティ・ライミ(太陽神の祭り)の会場となっているそうだ。
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(アンデス山脈が見える)
 教会からアンデス山脈がきれいに見えた。
 私たちはサントドミンゴ教会の見学を終えてカテドラル(大聖堂)へと向かった。
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(きれいな町並み)
 途中でインカ時代の有名な十二角の石があった。
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(十二角の石がある小径)
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(十二角の石)
 この石の角が十二もあるのかと数えてみるとやはり12角あった。インカ時代の技術のすばらしさが分かる。
 そこから少し歩くとカテドラル(大聖堂)が見えた。
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(カテドラル)
 カテドラルはインカの第8代皇帝の宮殿だといわれているビラコチャ神殿の上に建てられたものである。これはインカで信仰されていた宗教を排除する目的があり、カテドラル建設には多くのインカ人が労働力として使われた。教会の建設は1559年から始まり、およそ100年後の1654年に完成した。
 カテドラルはアルマス広場に面しており、この広場にはインカ第9代パチャクティ皇帝の像が中央に置かれていた。
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(アルマス広場)
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(インカ第9代パチャクティ皇帝の像)
 アルマス広場に面してラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会があった。
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(ラ・コンパニーア・デ・ヘスス教会)
 この教会はインカ第11代皇帝ワイナ・カパックの宮殿があった場所に建てられた。スペイン語のヘススとはイエズスのことで、日本でも馴染みのあるイエズス会が建てた教会である。
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(噴水とヘスス教会)
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(アルマス広場)
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(アルマス広場)
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 インカ帝国第9代皇帝であったパチャクテックは、アンデス世界における最も偉大な指導者であった。彼はインカ帝国の創設者であり、その組織の効率的な運営に専念した。
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(「ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 パチャクテックの偉業は、①インカのすぐ隣り合う民族集団でインカと敵対していたチャンカ人との戦いの勝利は彼の功績によるものであり、ここに端を発して他の民族集団を制圧して政治的・経済的に統制し、領土の拡大を図ることができた。②クスコの町の美化を行ったこと、太陽の神殿(コリカンチャ)を再建したこと、そして道路・橋梁・貯蔵庫・宿駅・灌漑水路などを建設したこと。③社会階層を整備したこと。④行政官、政治家、軍人、ならびに宗教官たちの役務を制定した。1年が12か月からなる太陽暦を制定した。
 インカ帝国の最盛期は80の民族とおよそ800~1600万もの人口であったと推定されているが、その領域は最大で北はエクアドルからペルー・ボリビア(チチカカ湖付近)・アルゼンチン・チリに至る2百万km²もあったと考えられている。
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(「ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 インカ帝国は比較的不安定なシステムではあったが、厳格に組織化された軍事体制を有しており、領土の急速な拡大に寄与したが、近隣の民族集団を制圧するのに、実際には軍事力よりも、例えば寛容と忍耐に充ちた説得あるいは朝貢物の実施や同盟の締結など、外交手腕による懐柔策を用いてその統制を堅固なものにした。(「ペルーとマチュピチュへの誘い」より)
 インカ帝国の説明が長くなったがサントドミンゴ教会の話しに戻ろう。
 教会の土台は前にも述べたがインカ帝国の太陽の神殿を土台とした物である。その石組みは、あまりにも精巧で剃刀も通らないほどぴたりと造られている。この土台はかなり堅固で、ペルーに大地震が来たとき、上の現代の工法で作られた建物は倒壊したが、下の土台は傷一つつかなかったほどである。その耐震性の秘密は、精巧な石組に加えて、石と石に互いに凸凹をつけ、それを剃刀も通らない精度で密着させているところにある。
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(石に凸をつけている)
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(剃刀も通さない石組み)
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(現代の石組み)
 インカの石組みと現代の石組みを比較するといかにインカ時代の技術が優れていたかが分かる。
 神殿内は広場を囲む月、太陽、稲妻、虹、星などの部屋からなっている。
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(太陽の神殿の模型)
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(太陽の神殿の模型)
 神殿は茅葺きの屋根であったことが分かっている。
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(生贄の部屋)
 生贄の部屋には石台があり、その台の上でアルパカやリャマなどの動物と共に特別な女性が生贄となった。その女性は村一番の美少女が選ばれ、薬草などで安楽死させられたのちミイラとなって太陽神に使えるのだとガイドのマリソルさんが教えてくれた。
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(インカで一番小さい石)
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(3つの窓が同じ高さにある壁)
 中央の台形の穴が向こうの部屋にぴったり重なっており、当時の技術のすばらしさが分かる。くぼんだ台形部分には神を祀る金や銀の像が飾られていたが、この宮殿にあった黄金はスペイン人がすべて鋳つぶして本国に持ち帰ってしまった。もし金や銀の像がそのまま残されていたならば、現在どれほどの価値があるか計り知れない、本当に残念である。
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