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 Ⅵ 大正デモクラシー
1 大正デモクラシー
1)民本主義
 政治学者の吉野作造は民本主義を主唱し、主権在君の大日本帝国憲法のもとで、それをできるだけ民主主義的に解釈し、普通選挙の実施、参謀本部・海軍軍令部・軍部大臣現役武官制をなどの廃止をよびかけた。
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(小学館「日本の歴史27」より)
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(三省堂「日本史B」より)
2)天皇機関説
 憲法学者の美濃部達吉は、天皇への絶対服従を説く上杉慎吉(しんきち)らの天皇主権説に反対し、議会重視の立場から国家と天皇とを区別し、統治権は国家にあり、天皇は国家の最高の機関であるとする天皇機関説をとなえた。天皇機関説は政党政治のよりどころとなり、議会中心の政治への道を切り開いた。
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(小学館「日本の歴史27」より)
3)総合雑誌の創刊
 社会運動が本格化するなかで、社会の根本的変革を求める「改造」がこの時代の合言葉となった。1919年、長谷川如是閑(にょぜかん)・大山郁夫(いくお)の『我等(われら)』、総合雑誌『改造』、黎明会の『解放』など、この時代の思想を象徴する雑誌が創刊され、労働問題や社会主義理論などが積極的に扱われた。
  また、日本人のなかに朝鮮人や中国人をさげすむ風潮が強まるなか、『東洋経済新報の』石橋湛山(たんざん)は植民地の放棄や軍備の撤廃などを求める小日本主義を主張し、第一次世界大戦中の青島(チンタオ)占領に反対するとともに、普通選挙の実施やシベリア撤兵を主張した。
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(小学館「日本の歴史27」より)
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(三省堂「日本史B」より)
 このような第1次護憲運動から普通選挙法制定までにみられた、自由主義や民主主義を求める思想や運動を大正デモクラシーとよんでいる。
4)国家主義の台頭
 その一方で、民本主義の風潮に対抗して、国家主義をとなえる平沼騏一郎の国本社(こくほんしゃ)や、クーデターによる天皇を中心とした国家改造を主張する北一輝への支持がしだいに広がっていった時期でもあった。

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 第62回日本史講座は6月24日(土)午後2時より、受講者8名で行われました。
3 普通選挙制度と治安維持法
1)普通選挙制度の成立
 護憲三派内閣の第一の使命は国民的世論となっていた普通選挙制度を成立させることであった。普通選挙の実施は、ロシア革命以後の国際的な民主主義の高まりとともに、国内における労働運動・農民運動などの社会運動の発展とともに国民の権利拡大に応じるためだけでなく、国交を結んだソ連の影響で社会主義運動が広がるのを防ぐ意味でも必要であるとする意見が政治家のなかに出ていたからである。
 1925年、衆議院選挙法の改正案が議会を通過して納税の有無にかかわらず、25歳以上の男性だけに衆議院選挙権が与えられることとなり、有権者は328万人から1240万人へと拡大された。しかし、女性は第二次世界大戦が終わるまで選挙権が与えられなかった。同時に選挙区は小選挙区制から中選挙区制にもどされた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)治安維持法成立の理由
 しかし、同じ1925年の議会で治安維持法も成立した。これは、天皇制廃止など天皇を中心とする日本の政治体制(国体)を変革しようとしたり、私有財産制度を廃止しようとして運動しようとして運動を起こしたり、起こそうとした者を弾圧する法律であった。この法律は労働組合や農民組合、知識人の反対を押し切って成立したが、その主なねらいは普通選挙法施行にともなって予想される無産政党の進出を予防しようとするものであった。治安維持法は、翌1926年、京都学連事件と呼ばれる学生のマルクス主義研究サークルに適用され、思想統制や弾圧がいちだんと強化されるようになった。治安維持法の成立はその後の日本の軍国主義へと道を進める重要な役割を果たした悪法であるが、この法律の成立に賛成した議員は246名で、反対した議員はわずか18名しかいなかった。
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(三省堂「日本史B」より)
 さらに1928年には改正治安維持法が山本宣治などの反対を押し切り、緊急勅令で最高刑に死刑を導入した。山本宣治は優れた生物学者であり、産児制限の運動を通じて社会運動に参加し、国会議員となって「改正治安維持法」に反対したが、右翼により刺殺された。『山宣ひとり孤塁を守る、だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから』という有名な言葉を残している。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より) 

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2 第2次護憲運動と三派内閣の成立
1)清浦内閣の成立
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(東京書籍「図説日本史」より)
 1923年に第2次山本内閣が虎の門事件という無政府主義者による摂政の宮(のちの昭和天皇)を狙撃した事件の責任をとって総辞職すると、貴族院・官僚勢力をバックとした清浦圭吾が内閣を組織した.しかし、政友会・憲政会・革新俱楽部は護憲三派を結成し、世論の支持をえて普選断行・貴族院改革・行政整理・政党内閣の実現などを叫んで清浦内閣打倒をめざす第2次護憲運動を展開した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)護憲三派内閣の成立
 1924年5月の総選挙で護憲三派は圧倒的な勝利をおさめ、清浦内閣は総辞職し、第一党となった憲政会総裁の加藤高明が首相となって護憲三派を与党とする内閣を組織した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 第1次加藤内閣は、小作調停法を制定し、不十分ながら貴族院改革や、行財政整理を手掛けた。陸軍でも軍縮が行われ、兵員数を削減し、かわりに戦車や機関銃などの兵器の近代化を行った。また、あまった現役将校を中等学校や高等学校に配属して軍事教練を指導させ、青年訓練所をもうけて在郷軍人による軍事教練をはじめるなど、若者に軍事教育を行う体制がつくられた。外交では幣原喜重郎外務大臣は、中国東北地方(満州)などの日本の権益を維持し続けながらも、中国や英米との協調外交を進め、1925年にはソ連と国交を開いた。
 そして、元老による後継内閣首班指名は続いたが、加藤内閣以後、1932年の五・一五事件で犬養毅(いぬかいつよし)首相が暗殺されるまで、衆議院で多数議席をもつ政党を中心に政党総裁が組閣する政党内額が慣例となったが、これを憲政の常道とよぶ。


 次回の第62回日本史講座は、6月24日(土)午後2時よりおこなう予定です。

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 Ⅴ 大戦後の政治と社会
1 原敬内閣と普選運動のたかまり
1)原敬内閣の成立
 米騒動をきっかけに、寺内内閣が倒れると、山県有朋らの元老は、軍人や官僚による政治支配の困難さを痛感し、1918年、議会多数派である政友会の総裁原敬を後継首班に指名した。原内閣は、陸軍・海軍・外務の三大臣をのぞく全閣僚が政党員で構成された本格的な政党内閣であった。国民にも好意的に受け入れられた原内閣は、外交では、軍閥の段祺瑞政権への支援を打ち切って21か条の要求で関係が悪化した中国との関係改善に努め、アメリカやイギリスと強調する姿勢を示した。内政では、元老や軍部・貴族院らと妥協しながら、軍備増強に努めるとともに、実業家や地主らの支持を広げるために、大学令の公布などの高等教育の拡充や、地方鉄道の建設、産業の奨励、港湾の整備などの、地方への利益誘導を行う積極政策を進めた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)普選運動の高まり
 1919年、納税資格を問わない普通選挙の実施を要求する運動(普選運動)が、大都市を中心に全国でもりあがった。これに対して、原内閣は、有権者の納税資格を直接国税10円から3円に引き下げて政友会を支持する小地主や上層自作農民らの有権者を増やし、与党に有利な小選挙区制を導入して1920年の総選挙に圧勝した。
3)原内閣以降の政治
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 原内閣の末期、普選運動への抑圧や戦後恐慌による積極政策の挫折に加え、汚職事件がおき、国民の不満が高まるなか、1921年に原首相は暗殺された。この後、政友会の高橋是清内閣が成立したが半年余りで倒れ、さらに政友会に支持された海軍閥の加藤友三郎内閣・第2次山本権兵衛内閣がつづいた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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 Ⅴ 大戦後の政治と社会
1 原敬内閣と普選運動のたかまり
1)原敬内閣の成立
 米騒動をきっかけに、寺内内閣が倒れると、山県有朋らの元老は、軍人や官僚による政治支配の困難さを痛感し、1918年、議会多数派である政友会の総裁原敬を後継首班に指名した。原内閣は、陸軍・海軍・外務の三大臣をのぞく全閣僚が政党員で構成された本格的な政党内閣であった。国民にも好意的に受け入れられた原内閣は、外交では、軍閥の段祺瑞政権への支援を打ち切って21か条の要求で関係が悪化した中国との関係改善に努め、アメリカやイギリスと強調する姿勢を示した。内政では、元老や軍部・貴族院らと妥協しながら、軍備増強に努めるとともに、実業家や地主らの支持を広げるために、大学令の公布などの高等教育の拡充や、地方鉄道の建設、産業の奨励、港湾の整備などの、地方への利益誘導を行う積極政策を進めた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)普選運動の高まり
 1919年、納税資格を問わない普通選挙の実施を要求する運動(普選運動)が、大都市を中心に全国でもりあがった。これに対して、原内閣は、有権者の納税資格を直接国税10円から3円に引き下げて政友会を支持する小地主や上層自作農民らの有権者を増やし、与党に有利な小選挙区制を導入して1920年の総選挙に圧勝した。
3)原内閣以降の政治
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 原内閣の末期、普選運動への抑圧や戦後恐慌による積極政策の挫折に加え、汚職事件がおき、国民の不満が高まるなか、1921年に原首相は暗殺された。この後、政友会の高橋是清内閣が成立したが半年余りで倒れ、さらに政友会に支持された海軍閥の加藤友三郎内閣・第2次山本権兵衛内閣がつづいた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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2 婦人運動と全国水平
1)女性の進出 
 第一次世界大戦後、事務員やバスの車掌・電話交換手・タイピスト・店員などの職業婦人が社会進出をはたし、都市部に夫婦を中心とする家族が増大した。このような新しい時代の風潮は女性の間にも、自分たちを従属的地位にしばりつける社会的きずなから解放し、地位の向上をはかろうとする思想・運動を生み出した。
 1911年に平塚らいてう(らいちょう)らが女性の解放をめざして青鞜社を結成していた。「青鞜」は18世紀のロンドンのサロン、ブルーストッキングの訳語で、雑誌「青鞜」の創刊号に載せられた平塚らいてうの巻頭言『原始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今女性は月である。…私どもは隠されてしまったわが太陽を今やとりもどさなければならぬ。』という言葉は、運動の目標をはっきりと示したものであった。ちなみに雑誌「青鞜」の創刊号の表紙の絵を描いたのは長沼智恵子(のちの高村光太郎の妻)である。
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(小学館「日本の歴史」より)
 青鞜社の運動は文学的思想啓蒙運動にとどまったが、1920年には平塚や市川房江らを中心に新婦人協会が結成されて、婦人参政権運動も行われるようになった。さらに1921年には山川菊枝ら女性の社会主義者が赤瀾会(せきらんかい)を結成した。1922年に治安警察法第5条が改正されて、女性の政治演説会への参加が認められると、1924年には婦人参政権獲得期成同盟会が結成され、女性の地位向上をめざす運動は盛んとなった。しかし、女性参政権は1945年の第二次世界大戦で日本が敗北するまで実現しなかった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)全国水平社の結成
 被差別部落の人々は、差別からの解放や人間としての平等を自己の力で獲得するために、団結を強めていった。1922年、京都市で全国水平社創立大会が行われ、日本最初の人権宣言といわれる水平社創立宣言を採択した。名前の由来は、17世紀のイギリス市民革命における「水平派」からきている。その後水平運動は全国に広まり、労働運動や農民運動とも結びつき、1年あまりの間に3府21県に支部がつくられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
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 Ⅳ 社会運動の発展
1 労働運動・農民運動の高揚
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(東京書籍「図説日本史」より)
1)労働運動の発展
 大戦後の資本主義の著しい発展にともなって、多数の労働者が作り出されたが、空前の好況にもかかわらずインフレーションによる物価騰貴によって、労働者の生活が楽にならなかったことに加えて、ロシア革命や米騒動の影響などが労働運動の高揚をもたらした。
 労働組合の中心となったのは、1912年、鈴木文治らによって結成された友愛会であった。友愛会は、はじめ労使協調の穏健な立場をとっていたが、1921年には日本労働総同盟と改めて、はっきりと階級闘争主義へと変わっていった。1920年の戦後恐慌は労働運動を活発にし、この年に日本最初のメーデーもおこなわれた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)農民運動の発展
 一方、農業は、都市人口の急増によって米の需要は増したが、戦後恐慌や朝鮮・台湾からの米の移入によって経営は苦しく、小作料の引き下げを求める小作争議が全国で起こった。1922年には、小作農民の解放をめざして、初の全国規模の運動組織として日本農民組合が結成された。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3)社会主義運動の発展
 労働運動や農民運動がさかんになるにつれて、大逆事件以来、活動を停止していた社会主義者の活動も活発になり、1920年に日本社会主義同盟が結成された。1922年には日本共産党が結成され、男女の普通選挙制の実施や君主制の廃止などをかかげて、ひそかに活動をはじめた。
 しかし、労総組合や農民組合の内部では、運動の進め方をめぐって、急進主義の左派と改良主義の右派との対立がおこり、この対立は無産政党にも広がった。1925年、日本労働総同盟は分裂し、左派の日本労働組合評議会が結成された。同じ1925年、日本農民組合を中心に農民労働党が結成されたが、即日禁止された。翌1926年には、右派の社会民衆党、中間派の日本労農党、左派の労働農民党の3党に分裂した。

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3 関東大震災と在日朝鮮人
1)関東大震災の混乱と在日朝鮮人に対する虐殺
 1923(大正12)年9月1日、マグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲った。なかでも、大都市の東京や横浜が大きな被害を受けたため、火災で市街地の大半を焼失し、被災者340万人、死者・行方不明者14万人をこえる大惨事となった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 この混乱の中で、在日朝鮮人が暴動を起こそうとしているとか、放火をしたとか、毒物を井戸に投げ込んだといったデマが広がった。そして、戒厳令下のもと、軍隊や警察、帝国在郷軍人会などが組織した自警団も加わり、無抵抗の6000人にのぼるとされる在日朝鮮人が虐殺された。
 この虐殺について、鹿野正直氏は「テロは、軍隊にもよったが、ふつうの市民を主役とした。それを、国家機関にのみおっかぶせてしまうことは、事実としてできない。植民地をもつ国家の人間としての排外主義・支配者的恐怖感は、それだけふかく人々をおかしていたといわねばならぬ。そうして第二次世界大戦後もその事実の解明に、日本人は腰が重かった。この問題についての事実を克明にあつめ、その後の究明への基礎をきずいたのは、在日朝鮮人であった。それをうけるかたちで、1973年の震災50周年のころから、日本人の手によって各地でのテロリズムの調査や聞き取りが、ようやくおこなわれるようになったといってよい。」(小学館「日本の歴史27」より)と指摘している。日本人は過去の負の歴史をきちんと見ようとしない傾向がある。この虐殺事件に対しても、ネットで検索してみるとこのような虐殺はデマであると主張している人がいる。正しく歴史を見ることの大切さをつくづくと感じる。
2)混乱に乗じた事件
 震災の混乱に乗じて、憲兵大尉の甘粕正彦らが無政府主義をとなえた大杉栄・妻伊藤野絵(のえ)・大杉の甥である橘宗一(たちばなそういち)を東京憲兵隊に連行し虐殺した甘粕事件や、労働組合の幹部ら9名が亀戸(かめいど)署で軍隊に刺殺された亀戸事件や、在日中国人が殺害されるという事件が起こされた。
 
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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 第61回日本史講座は、6月10日(土)午後2時より受講者8名で行われました。
2 植民地経営と中国進出
 大戦景気をきっかけに、植民地経営が本格化し、大企業が台湾・朝鮮・中国へ進出していった。
1)台湾
 台湾では、日本国内のコメ不足を補うために米作りが強制され、三井や三菱などの財閥を中心に日本からの砂糖や樟脳(しょうのう)・塩などの生産が増大した。とりわけ砂糖の生産がすさまじく、1902(明治35)年を100とした場合の収穫高は、1925(大正14)年には1294に達していた。つまり日本帝国主義下の台湾では、日本のために台湾経済はモノカルチャ(単一栽培)化が進められ、日本への砂糖供給地としてしまった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)朝鮮
 朝鮮では、1908年に日本からの農業移民を斡旋する東洋拓殖会社が設立され、1910年から1918年にかけて土地所有者を確定する土地調査事業が行われた。朝鮮では所有権がはっきりしない共有地が多数あったが、そのような土地はすべて朝鮮総督府が取り上げた。また、農民には自分の土地を申告するという習慣もなく、申告すれば土地を取り上げられるといったデマが流されたこともあり、土地を申告しなかった農民が多かった。その結果、1918年には朝鮮の農民の約8割が自小作農民か小作人となったが、没落した多くの農民は日本や満州へ出稼ぎに行かざるをえなくなった。また、1920年に許可制だった会社設立が解禁されると、新興財閥の日本窒素肥料会社(日窒)などの企業が進出した。
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(小学館「日本の歴史27」より)
3)中国
 中国では、東洋紡績会社や鐘淵紡績会社などの6大紡績会社が上海や青島などに在華紡とよばれる大紡績工場を建設していった。満州では、関東都督府を関東庁と関東軍司令部とに分けて民政と軍政とを分離し、満鉄沿線と関東州の守備隊を関東軍として独立させた。また、満鉄を中心に石炭・鉄鉱石・大豆などの日本への供給基地化を進めた。
 南樺太では、豊富な森林資源をもちいたパルプ工業が発展し、日本の委任統治領となった南洋諸島では日本人による漁業がはじまった。
 

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 Ⅲ 大戦後の朝鮮と中国
1 三一独立運動と五四運動
1)三一独立運動
 ロシア革命以降、植民地や従属国では、各民族が列強の支配や干渉を排して、みずから国家をつくり自分たちの意思で政治を行おうとする民族自決の考え方が広まった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 朝鮮では独立の機運が高まり、1919年3月1日、元国王高宗(こうそう)の死をいたんで京城(ソウル)で独立宣言書を発表し、朝鮮の独立を世界の世論に訴え、またパリ平和会議に請願した。同時にパゴダ公園に集まった学生や市民は、独立宣言を読み上げ、「朝鮮独立万歳」をさけぶデモ行進を行った。この動きはたちまち全土に広がり、200万人以上が反日・独立運動に参加したがこれを三一独立運動とよぶ。韓国では、現在も3月1日は祝日である。朝鮮総督府は憲兵や警察のほか日本軍を投入して鎮圧し、死者は7000人以上におよんだ。「朝鮮のジャンヌダルク」とされる柳寛順(ユ・グァンスン)が逮捕され獄死するきっかけとなった天安事件や定州事件など、虐殺事件があいついだ。日本では、ごく一部の知識人をのぞいて、多くはアメリカ人宣教師の扇動による暴動としかみなかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 事件後、朝鮮総督となった海軍大将斎藤実(まこと)は、憲兵警察制度を廃止し、制限付きながら集会・結社の自由を与えるなどの「文化政治」を行ったが、警察官の人数は3倍以上に増やしており、抵抗運動はその後もつづいた。
2)五四運動
 中国では、21か条の要求取り消しの訴えがパリ講和会議で無視されると、1919年5月4日、北京の学生らが条約調印拒否の運動を起こした。運動は各都市に広がり、日本製商品のボイコット(日貨排斥)運動が起き、中国政府は講和条約の調印を拒否せざるを得なくなった。これを五四運動とよぶ。この運動に刺激を受けた孫文は、同年に中国国民党を結成して新たな革命運動へと乗り出した。また、1921年には中国共産党が結成され、帝国主義と軍閥の打倒をめざした。
 こうして、日本は朝鮮や中国の民族運動の矢面に立たされることになった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 次回の第61回日本史講座は、6月10日(土)午後2時よりおこなう予定です。


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