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2 五・一五事件
1)国家主義の高まり
 1930年代に入ると、軍部の青年将校や民間の国家主義による急進的な国家改造運動が活発となった。彼らは元老・政党・財閥などの支配層が国家の危機と国民の窮乏をよそに、私利私欲にふけっているものとして、これらの支配者たちを武力で打倒しようと計画するようになった。
 1931年3月には、陸軍の桜会の将校と民間の国家主義者たちがクーデターを起こし政党内閣を打倒して軍部政権の樹立をはかろうとする3月事件が起こった。満州事変が勃発するとこうした動きが一層激しくなり、同年10月には、同様な十月事件が起こった。両事件はともに未遂に終わったが、十月事件は満州事変の不拡大方針をとる若槻内閣を退陣に追いこんだ。しかし、この事件が公になったのは戦後になってからである。
  また、政党政治や財界の指導者に対するテロの動きも起こり、1932年2月には前蔵相井上準之助、3月には三井合名理事長団琢磨(たくま)らがあいついで血盟団によって暗殺されるという血盟団事件が起こった。血盟団は、国家主義者で僧侶の井上日召(にっしょう)を指導者とする右翼団体で、茨木県大洗(おおあらい)で農村青年に国家改造の必要を説き、多数の政財界の要人暗殺を計画した。
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(小学館「日本の歴史30」より)
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(小学館「日本の歴史30」より)
2)五・一五事件
 不穏な事件がつづくなかで、1932年5月15日には海軍青年将校の一団が、白昼、首相官邸を襲って犬養首相を射殺し、さらに牧野内大臣邸・警視庁・政友会本部・日本銀行などを襲った。これがいわゆる五・一五事件である。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(小学館「日本の歴史30」より)
3)挙国一致内閣
 首相殺害という暴力に対して、軍部は事件に関与した軍人を軽い処分に済ませただけであった。かえって、事件のたびごとに軍部の発言力は強まり、犬養内閣のあとには、退役海軍大将斎藤実(まこと)が首相となり、荒木貞夫陸軍大臣・高橋是清大蔵大臣の留任、さらに政友会と民政党からの入閣による挙国一致内閣が成立した。これ以降、軍人や官僚、重臣らを首相とする挙国一致内閣が13代にわたってつづき、護憲三派内閣以来の政党内閣はわずか7年で終わった。
 次回の第65回日本史講座は、9月9日(土)午後2時より行う予定です。
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 Ⅱ 満州事変と挙国一致内閣
1 満州事変
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(東京書籍「図説日本史」より)
1)柳条湖事件
 満州では張作霖の跡を継いだ息子の張学良が、日本の反対を押し切って国民政府に忠誠を誓った。国民政府は満州においても日本の利権を回収しようとしたため、軍部、なかでも満州に駐留する関東軍は危機感をつのらせた。そのため、満州は日本の生命線であると宣伝し、幣原外交を「軟弱外交」と非難し、危機を打開するために軍事力を発動して満州を中国の主権から切り離し、日本の支配下に置こうとする機運が高まった。
 1931年9月18日、関東軍の板垣征四郎・石原莞爾(かんじ)らは奉天郊外の柳条湖で満鉄線路を爆破させたが、これを柳条湖事件と呼ぶ。関東軍はこれを中国軍が起こしたとして、いっせいに中国軍に攻撃をしかけ、満鉄沿線の主要都市を次々に占領していったが、これを満州事変と呼ぶ。
2)中国の対応
 中国では日本への猛反発が起こったが、国民政府の蒋介石は徹底抗戦をせず、軍隊を温存して共産党攻撃つまり内戦を優先し、この問題を国際連盟に提訴した。その結果、国際連盟はリットン調査団を日本・中国へ派遣した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3)日本の対応
 若槻内閣は不拡大方針を声明したが、軍部を抑えることができず、また軍部右翼のクーデター計画におびやかされて1931年に若槻内閣は退陣した。かわって政友会総裁の犬養毅が内閣を組織したが、軍事行動は止まらなかった。
 日本軍は1932年、国際社会の目を満州からそらすとともに、中国の抗日運動を弾圧する目的で、上海で海軍陸戦隊を中国軍と衝突させる第1次上海事変を起こした。この事変は、日本軍が中国人を雇って日本の僧侶などを死傷させるという事件を口実に、上海を占領するという計画であったが、中国軍や民衆の抵抗などにより失敗した。
4)満州国の独立
 関東軍は1932年2月までに東3省(黒竜江・吉林・奉天)をほとんど占領し、3月には清朝最後の皇帝溥儀(溥)を執政とする「満州国」を建国し、長春を新京(しんきょう)と改めて首都とした。
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東京法令「ビジュアル世界史」より)

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5 財閥の経営強化と統帥権干犯問題
1)財閥の経営強化
 政府は、恐慌対策として、企業救済資金を出す一方で、1931年に重要産業統制法を制定してカルテルの結成を公認した。この結果、中小企業の多くが倒産する一方で、三井・三菱・住友・安田の四大財閥や、政府の保護のもとに成長してきた化学工業の日産(日本産業株式会社)・日窒(にっちつ)(日本窒素肥料)などの新興財閥は、多くの企業を吸収して経営基盤をいっそう強化していった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)統帥権干犯問題
 浜口内閣は、1930年、ロンドン海軍軍縮会議に若槻元首相や財部彪(たからべたけし)海軍大臣らを全権として送り、海軍軍令部などの反対を押し切って条約に調印した。この会議で、日本は補助艦保有トン数が米英の6.97割となったが、軍部や右翼、野党の政友会はこの調印を天皇の統帥権をおかすものだとして浜口内閣を非難・攻撃したが、これを統帥権干犯問題と呼ぶ。
 浜口首相は、元老や海軍主流派の支持を受けて条約を批准したものの、1930年、東京駅で右翼の青年によって狙撃されて重傷を負った。1931年、浜口内閣は総辞職し、かわって同じ民政党の第2次若槻礼次郎内閣が成立した。
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(東京書籍「図説日本史」より)

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 第64回日本史講座は、7月22日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
4 世界恐慌と昭和恐慌
1)世界恐慌
 1929年10月24日、アメリカのウォール街で株式相場が大暴落したことをきっかけにアメリカで恐慌が始まった。恐慌の原因は、第一次大戦以来の生産過剰による企業の経営悪化によるものである。その結果、アメリカはドイツやイギリスから資本を回収したため、ドイツの賠償金支払いが滞り恐慌は世界に波及し世界恐慌となった。
 アメリカでは会社・銀行の倒産するもの2万をこえ、失業者は500万人におよび、1933年には一時、全銀行が休業するほどであったから、その激しさは空前のものであった。
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(三省堂「世界史B」より)
2)昭和恐慌
 1929年に「満州某重大事件」により退陣した田中内閣にかわり、民政党の浜口雄幸内閣が成立した。浜口首相は、大蔵大臣に井上準之助をすえ、外務大臣に幣原喜重郎を復帰させて、日本経済の立て直しと日中関係の改善に取り組んだ。井上大蔵大臣は、欧米にならって、1917年から停止していた金の輸出を解禁して金本位制に復帰しようとして金解禁をおこなった。
 日本の金解禁は「嵐のなかで雨戸をあける」ような状態となり、輸出振興どころか、輸出は激減して入超がひどくなり、とくに金の流出が激しくなった。わずか2年間で7億3000万の金が流出し、日本経済は深刻なっ恐慌状態におちいったが、これを昭和恐慌と呼ぶ。まず、アメリカ向けの重要な輸出品であった生糸の価格が大暴落し、硫安・セメント・銅などの重化学工業製品や綿糸などの輸出品の価格も暴落した。企業の倒産や生産の縮小があいつぎ、物価や株価も激しく下落した。
 恐慌の打撃は農村においても最も深刻であった。家計を助けるために都市に出稼ぎに出ていた農村出身の労働者は職を失って帰村したうえ、米価をはじめ農産物価格の暴落によって農家経済は苦しくなった。とくに生糸の輸出が激減したため、繭の価格が暴落し、農村の副業である養蚕業は壊滅的な打撃を受けた。生活の苦しくなった中小地主は土地を手放したり、小作地を取り上げようとし、各地で小作争議が起こった。
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(小学館「日本の歴史30」より) 
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(小学館「日本の歴史30」より) 

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3 積極外交と山東出兵
1)田中内閣の積極外交
 1927年に成立した政友会の田中儀一内閣は、北伐からの日本の権益を守るため、山東省に住む日本人保護を名目に第一次山東出兵を行った。そして、東方会議を開き、満州と内蒙古での権益確保と治安維持のために強硬方針でのぞむことを決定し、北伐が再開されると第二次山東出兵を強行し、済南で北伐軍と衝突した済南事件が起こった。日本はさらに第三次出兵を行って兵力を増加して北伐軍の北上を抑えようとした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 日本政府は満州の軍閥張作霖(ちょうさくりん)と交渉し、これを利用して満州の権益拡大を求めたが、張作霖が日本のこうした政策に抵抗したので、関東軍の河本大作(こうもとだいさく)らは1928年6月、北京から奉天に引き上げる途中の張の列車を爆破した。陸軍は張作霖爆殺事件を中国側のしわざだと公表したが、国際的に疑惑をもたれ、また、国内の野党からは満州某重大事件として攻撃され、真相を隠した田中内閣は昭和天皇の怒りにふれ総辞職した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)普通選挙の実施
 1928年、田中内閣のもとで初の普通選挙による総選挙が実施され、政友会217議席、民政党216議席となり、二大政党が圧倒的多数を占めた。しかし、厳しい取り締まりにもかかわらず、社会民衆党4議席、労働農民党2議席、日本労農党1議席、地方無産党1議席と無産政党が8議席を獲得した。
3)共産党への弾圧
 田中内閣は1928年3月15日に日本労働組合評議会や日本共産党への弾圧を行ったが、これを三・一五事件と呼ぶ。同年、最高刑を死刑とする治安維持法の改正を緊急勅令で行った。この改正にさいして、労働農民党の代議士の山本宣治は議会で改正に反対したため、1929年、東京で右翼によって暗殺された。また、政府は思想弾圧のための特別高等警察(特高)を全国に拡大したうえで、1929年、再び共産党を徹底的に弾圧したが、これを四・一六事件と呼ぶ。この結果、対立や分裂をくりかえしていた無産政党などは急速に衰えていった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 次回の第64回日本史講座は7月22日(土)午後2時よりおこなう予定です。

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2 金融恐慌
1)金融恐慌の原因
 第一次世界大戦中の好景気の反動で、大戦が終わると日本は戦後恐慌に陥った。もともと日本の資本主義は戦争をつうじて発展したもので、軍事産業のしめる比重が大きく、そのうえ、国民の購買力が低いために国内市場が狭く、常に海外市場に依存するという不安定な構造をもっていた。大戦が終わって列強の生産力が回復してくると、輸出は急減して、貿易収支は輸入超過に転じた。また綿糸・生糸の生産過剰によって相場が大幅に下落し、紡績・製糸業は深刻な不況におそわれた。
 ついで、1923年には関東大震災にみまわれて京浜地区はほとんど焼け野原となり、日本経済は大きな打撃を受けた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

2)金融恐慌の経過と処理
 1926年12月に大正天皇が亡くなり、昭和天皇が即位したよく1927年、一部の銀行の経営悪化が明るみに出ると、各地で取り付け騒ぎがおき、不良債権をかかえていた中小銀行の休業や倒産があいついだが、これを金融恐慌と呼ぶ。
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片岡直温(かたおかなおはる)金融恐慌発生時の大蔵大臣(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 さらに砂糖などの台湾との取引で急成長した鈴木商店が破産状態となり、これに巨額の融資を行っていた台湾銀行も経営危機に陥った。若槻内閣は、緊急勅令で日本銀行に非常貸し出しを行わせて、台湾経済の中枢をになう台湾銀行を救おうとしたが、協調外交を敵視する枢密院に勅令案を反対され、総辞職に追い込まれた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 かわって成立した政友会の田中儀一内閣は、3週間の支払い猶予令(モラトリアム)と日銀非常貸出法を成立させて、ひとまずこの混乱をしずめた。この間、多くの中小銀行が倒産したため、預金は三井・三菱・住友・安田・第一の五大銀行に集中していった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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第63回日本史講座は、7月8日(土)午後2時より受講者7名で行われました。
  第19章 近代から現代へ
 Ⅰ 政党政治と二つの恐慌
1 第一次世界大戦後の世界
1)世界協調や軍縮の動き
 第一次世界大戦は、人類がかつて経験しなかった未曾有の被害をもたらした。その結果、列強どうしの国際協調と軍縮を求める動きがつづき、1927年にはジュネーブ海軍軍縮会議が、1928年にはパリ不戦条約会議が開かれ、1930年にはロンドン海軍軍縮条約が締結された。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 また、世界最大の資本主義国となったアメリカが1919年に金本位制に復帰すると、ヨーロッパ諸国はつぎつぎにこれにならったが、日本は戦後不況と金融恐慌で金本位制は遅れた。
2)戦後のドイツとイタリア
 敗戦国のドイツでは、天文学的な賠償金の負担や領土の縮小、極端な軍縮などにより、ヴェルサイユ条約に対する不満が高まっていた。さらに賠償金の支払いの遅れからフランスに石炭産地のルール地方を占領され、ドイツ経済は危機に瀕していた。
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(東京法令「世界史のパサージュ」より)
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(東京法令「世界史のパサージュ」より)
 戦勝国のイタリアでも、期待していた領土を獲得することができなかったため、国民の不満が大きく、これを利用してムッソリーニが政権を奪い、対外進出を進めつつあった。
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(東京法令「世界史のパサージュ」より)
3)中国
 1919年の五四運動以後、孫文は「連ソ・容共・工農扶助」政策を推進して、1924年に国民党と共産党が共同する国共合作が成立した。一方、1925年の五・三〇事件をきっかけに欧米や日本などの列強に対する反帝国主義運動が激化した。このような背景のなかで孫文は広東に国民政府を組織したが、革命途上で病没した。翌1926年には国民革命軍総司令の蒋介石が、各地に勢力を置き、激しい抗争をくりかえしていた軍閥を倒す北伐を開始した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)日本の外交姿勢
 加藤高明内閣の幣原喜重郎外務大臣は、欧米と協調をはかり、中国に対しては内政不干渉政策をとって、満州などでの権益維持に努めた。しかし、慢性的な不況から抜け出すためには中国市場の確保が重要であるとして、幣原外交を軟弱と攻撃する勢力も台頭していた。

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3 近代文学の確立
1)白樺派
 文芸思潮の面では1910年代になると、自然主義がしだいに退潮し、武者小路実篤・有島武郎・志賀直哉・有島生馬らの白樺派がはなばなしい活躍を見せ、文壇の中心となった。彼らはいずれも上流社会の出身で、洗練された都会的感覚と西欧的教養を身につけ、雑誌『白樺』を中心に創作・評論活動にあたり、明るい人道主義的作風で世に広く受け入れられた。彼らはトルストイやロダンの影響を受け、国家主義に対する個人の権威の確立を重視した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)耽美(たんび)派
 白樺派と並んで明治末期から永井荷風・谷崎潤一郎らの耽美派の作家たちが官能美・感覚美に満ちた多くの作品を発表した。
3)新思潮派
 これらにやや遅れて、芥川龍之介・久米正雄・菊池寛らが理知的な作風でするどく現実をとらえた作品を発表して文壇にデビューした。彼らは、第3・4治「新思潮」によって活躍し、新思潮派・新現実派・新理知派などとよばれた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
4)大衆文学
 この頃、大衆文学が新聞や雑誌を発表の舞台として多くの読者を獲得していった。中里介山は『大菩薩峠』を吉川英治は『鳴門秘帖』を大佛(おさらぎ)次郎は「幕末秘史 快傑鞍馬天狗」をそれぞれ発表した。久米正雄や菊池寛も大正末期以降、大衆小説作家として名を成した。
5)プロレタリア文学
 1920年代の社会的激動によって白樺派の楽天的な人道主義や新現実派の小市民的思考はしだいにゆきづまりをみせ始めた。有島武郎や芥川龍之介の自殺はその象徴であった。一方、労働者出身の作家自身の生活経験をもとにした労働文学もあらわれ、1921年には雑誌『種蒔く人』が創刊され、プロレタリア文学が生まれた。作家としては『蟹工船』の小林多喜二、『太陽のない街』の徳永直(すなお)らが名高い。
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(東京書籍「図説日本史」より)
次回の第63回日本史講座は、7月8日(土)午後2時よりおこなう予定です。
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2 社会と人間の学問研究
1)人文・社会科学
 民主主義的な思想の浸透は、人格や文化を重んじる個人主義的な学問や思想をはぐくんだ。
 歴史学の分野では津田左右吉(そうきち)が日本古代史の実証的研究を通じて『古事記』・『日本書紀』の記述が史実ではなく、皇室の支配の由来を示すための創作であることを説いた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
  民俗学では、柳田国男が民間伝承・風俗習慣・行事などの研究によって庶民の生活史を明らかにした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
  また、哲学が大いに流行し、西田幾多郎(きたろう)が『善の研究』などを発表し、仏教とヨーロッパ哲学を統一する独自の哲学を生み出し知識人の間に大きな影響を与えた。
 マルクス主義の影響が人文・社会科学各分野にあらわれはじめたこともこの時代の特色であった。とくに、1920年代にはいって、経済学・歴史学・哲学などではその影響を強くうけた。自由主義経済学者河上肇がマルクス主義経済学者として成長し、民本主義理論家大山郁夫が無産政党運動に活躍したのも、こうした風潮のなかにおいてであった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)自然科学
 自然科学では、理化学研究所・伝染病研究所・などの研究機関が充実されたこともあって、北里柴三郎のペスト菌の発見や鈴木梅太郎の脚気(かっけ)の原因究明、野口英世の黄熱病の研究など、世界的水準の業績が生まれるようになった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)

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