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 Ⅲ マスーメディアと大衆文化
1 思想統制
1)滝川事件
  国家主義の高まりのなかで、思想・言論に対する取り締まりは一段と強化され、マルクス主義はもとより、自由主義・民主主義的思想・学問も厳しい取り締まりの対象となった。1933年には自由主義的刑法学説をとなえた滝川幸辰(ゆきとき)京都帝大教授が「国体に反する」と右翼から攻撃されると、文部省は滝川を休職処分にした。著書『刑法読本』が発売禁止となった。この時、京都帝国大学法学部の教授たち全教官が辞表を提出した。また、法学部の学生は全員退学届けを提出する運動を起こしたが、さらに東京帝国大学など16大学が参加して「大学自治擁護連盟」が結成された。この事件は滝川事件と呼ばれるが、この事件をきっかけにして大学の自治や学問の自由が奪われていった。滝川教授の罷免を要求した文部大臣は鳩山一郎であり、彼は戦後、この事件を理由として公職を追放された。
2)天皇機関説 
 美濃部達吉の天皇機関説は、統治権の主体は国家であり、天皇はその総覧者として国家の最高の機関であって、憲法の条規に従って統治権を行使するものであるという学説であった。こうした学説は明治末期以来、学界で広く承認されていたばかりでなく、元老や政府首脳も天皇機関説的な考え方にたって政治の運営にあたってきた。ところが、1935年、軍人出身者の議員が貴族院でこれを非難したのをきっかけに、軍部や国家主義グループは、天皇主権説の立場から統治権の主体は天皇であるとして、天皇機関説は日本の国体にそむく不敬の学説であるとの攻撃がおこったのである。岡田啓介内閣は、軍部や右翼の圧力に屈して天皇機関説を否定する国体明徴声明を出し、美濃部を議員辞職に追い込み、思想弾圧を強化した。
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(小学館「日本の歴史27」より)
2 ラジオ・レコード・演劇文化
1)ラジオ放送 
 このころ、ラジオ放送などの新たなマスーメディアが生まれた。ラジオ放送は、日本放送協会が発足して全国放送され、定時ニュースやスポーツなどの実況中継が放送されるようになると、急速に普及していった。
2)歌謡曲・映画の普及
  ラジオ放送とレコードの発売によって、『東京行進曲』や『波浮の港』などの歌謡曲が全国で流行し、浪花節もラジオをとおして民衆に愛された。映画は無声映画にかわってトーキー映画が封切られた。また、演劇界では島田省吾や辰巳柳太郎の新国劇が人気をはくし、喜劇ではエノケンやロッパが活躍した。
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(東京書籍「図説日本史」より)
3 文化の大衆化とプロレタリア文学
1)活字文化の大衆化 
 1926年に改造社が円本と呼ばれる1冊1円の安価な本を大量販売したことにより、活字文化が普及していった。1927年には岩波書店が岩波文庫を発売し、古典や専門書が大衆化した。この頃、あいついで週刊誌や月刊誌が創刊された。週刊誌は、1922年に『サンデー毎日』・「週刊朝日』が創刊された。月刊誌では、1923年に菊池寛による『文芸春秋』が、1925年には講談社から『キング』が創刊された。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 2)社会科学の発達
 社会科学の分野では、日本の現実をマルクス主義の手法で分析する動きがあらわれ、野呂栄太郎を中心とした『日本資本主義発達史講座』が刊行された。この講座では、服部之総(しそう)・羽仁五郎・山田盛太郎らが日本近代社会における封建制を検証して民主主義革命の課題を裏付けた。これに対し、雑誌『労農』では、当面の課題は社会主義革命であると主張し、論争となったが、これを日本資本主義論争と呼ぶ。
3)プロレタリア文学運動 
 この頃、プロレタリア文学運動が起こり、小林多喜二・徳永直(すなお)・中野重治・中条百合子らは、1928年に結成された全日本無産者芸術連盟(ナップ)を拠点に労働者解放の立場に立った作品を発表した。代表作は、小林多喜二の『蟹工船』、徳永直(すなお)の『太陽のない街』などである。しかし、小林多喜二が拷問のすえに亡くなるなど、運動は厳しい弾圧を受け、多くの作家が「転向」をせまられていった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
4)大衆小説の普及 
 この頃、大衆の求めに応じた小説があいついで発表された。代表作は、吉川英治の『宮本武蔵』・大佛次郎の『鞍馬天狗』などである。また、人気シリーズでは、野村胡堂の銭形平次などの捕物帳や子母澤寛(しもざわかん)の国定忠治などの股旅物などがある。
 次回の第66回日本史講座は10月14日(土)午後2時から行う予定です。
  
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5 ブロック経済圏の形成
1)世界恐慌への対応
 世界恐慌に対し、欧米列強は、自国と植民地などを中心に排他的なブロック経済圏をつくって貿易の統制や管理を強めて乗り切ろうとした。アメリカは1933年、フランクリン・ローズヴェルト大統領によるニューディール政策を実施した。これは政府が積極的な公共事業を行って失業者の雇用を促進し、購買力の回復をねらったものである。一方、イギリス・フランスは、植民地や旧植民地との関税の減免を行って圏内の結束を強化し、日本やドイツなどには高い関税を課し貿易から締め出した。植民地を持たないドイツ・イタリアはブロック経済で打撃を受けるなかでファシズム政権が成立し、植民地獲得に乗り出した。
2)日本の対応
 日本は朝鮮や満州、華北を一体化した日本の円ブロック経済圏を建設して恐慌からの脱出を図ろうとした。そのため、政府は経済統制を強めながら恐慌対策と軍需拡大のための予算を増やした。この頃、大蔵大臣として活躍した高橋是清は、金本位制を停止し、政府が通貨発行額の管理・調整と、対外決済のための金の管理・調整を行う管理通貨制度に移行させるとともに、多額の赤字国債を発行して不足する予算を補った。その結果、円安が進み、それを利用してソーシャル・ダンピングと非難されるほどの安値で綿糸や綿布などを輸出していった。また、大胆な賃金カットで製品価格を抑え、ブロック経済に対抗した結果、1933年には恐慌前の経済水準に回復することができた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 一方、農村はながく恐慌の影響から抜け出すことができなかった。政府は、産業組合を中心に自力更生を図る農山漁村経済厚生運動をすすめ、負債整理組合法などによって農村を立て直そうとしたが、農村が景気を回復するのは、1937年ころまで待たなければならなかった。
 政府や軍部は、窮乏する農民に対して満州への農業移民を奨励した。1932年から長野県や東北をはじめとする農村から多くの人々が満蒙開拓団として入植していった。戦争で日本国内の労働力が不足し始めると、1938年からは農家の二男・三男を中心とする青少年を訓練して満蒙開拓青少年義勇軍を組織し、満州へ送り込んだ。入植地の多くは日本が強制的に買い上げた中国農民の土地であった。

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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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 第65回日本史講座は、9月9日(土)午後2時より受講者8名で行われました。
4 「満州国」の承認
1)「満州国」との国交樹立
 1932年9月、斎藤実(まこと)内閣は、日満議定書を結んで「満州国」を承認し、満州を日本の実質的な植民地とした。1934年、「満州国」は「満州帝国」となった。関東軍司令官が駐満大使と関東庁長官を兼ね、軍部が満州を支配した。また、日本が「満州国」を承認した9月15日、中国の抗日ゲリラが満鉄所有の撫順炭鉱を襲い、翌日、日本軍は近くの平頂山の村民をゲリラと関係あるとして大量虐殺した、「平頂山事件」が起こった。犠牲者の数は、日本の研究者によると400~800人で、中国によると3000人にものぼるといわれている。軍部は、「満州国」周辺の山海関(さんかいかん)を攻撃し、さらに華北へも攻撃をすすめ、中国と塘沽(タンクー)協定を結んで、満州と熱河省を事実上の支配地とした。そして、長城以南の非武装地帯にかいらい政権である冀東(きとう)防共自治政府をつくって、華北を中国から切り離す準備をはじめた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2)国際連盟の動き
 1933年の国際連盟では、リットン報告書に基づいて、「満州国」の否認と日本の権益尊重などを内容とする勧告が日本以外42か国の賛成をえて採択されると、日本の全権松岡洋右は国際連盟からの脱退を宣言した。
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(小学館「日本の歴史30」より)
3)軍部の政治介入
 1934年、斎藤内閣が汚職事件で総辞職すると、かわって海軍大将の岡田圭右内閣が成立した。陸軍省はパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を発行し、総力戦にそなえて国防国家建設の必要性を説くなど、軍部は公然と国家のあり方を論じるようになった。

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