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2 降伏と敗戦
1)ポツダム宣言
 1945年4月、ヒトラーが自殺して、翌5月7日ドイツは無条件降伏した。7月にはドイツのポツダムでトルーマン米大統領・チャーチル英首相(のちアトリーに政権交代)・スターリンソ連首相によるポツダム会談が行われ、日本に降伏を要求するポツダム宣言が中立国であるソ連をはずして、米・英・中国の名で発表された。ポツダム会談についての興味ある話は、このブログの「ドイツ旅行記①」に詳しく書いていますのでぜひお読みください。
 ポツダム宣言では、敗戦後の日本に対して、軍国主義の除去・戦争犯罪人の処罰・侵略で得た領土の返還・民主主義と基本的人権の確立を求め、新たな秩序が建設されるまで連合国が日本を占領することとされ、宣言を受諾しなければ日本の最終的な破壊があることが明記されていた。
 これに対し、鈴木貫太郎内閣は「黙殺」を宣言して検討をすぐには行わなかった。この間、1945年8月6日に米軍は広島に原爆を投下し、およそ20万人の命を奪った。そして、8月8日にソ連がヤルタ協定にもとづいて対日宣戦を布告してポツダム宣言に加わると、8月9日に米軍は長崎にも原爆を投下して、およそ12万人もの命を奪った。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)なぜアメリカは原爆を投下したのか。
 アメリカの説明では、原爆を投下しなければ、日米戦争はさらに続き、数百万人の人間が死ぬであろう。だから広島・長崎の30万人以上の死者は、その数百万人の生命を救った尊い犠牲者であると主張する。しかし、本当の理由は、アメリカは戦後世界での優位な地位を得るために、ソ連の参戦の前に日本を降伏させようとして原爆を投下したのである。
3)アジア・太平洋戦争の終結
 ここにいたって、ようやく天皇や内大臣・枢密院議長・元首相らの重臣、鈴木内閣はポツダム宣言の受諾を検討した。彼らにとって重要であったのは、国体護持すなわち天皇制が守られるかどうかであって、国民の生命ではなかった。ポツダム宣言を速やかに受諾していれば、原爆の被害を避けることができたのである。
 ポツダム宣言は国体を否定しないという解釈のもとに、宣言の受諾が決定され、15日正午のラジオ放送(玉音放送)で国民に知らされ、戦争は日本の無条件降伏を持って終わった。

 次回の第70回日本史講座は、2018年1月13日(土)午後2時より行う予定です。
 

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 Ⅱ 大日本帝国の崩壊
1 日本への空襲と沖縄戦
1)敗戦への道
 1942年4月、東京や名古屋、神戸などの大都市が初空襲を受けた。この空襲は、米軍が開発した航続距離の長い爆撃機B25を空母から発進させたものである。アメリカ機動部隊の再度の攻撃を阻止するため、日本本土の哨戒ラインをさらに東側に延伸する必要にせまられた。そのための前進基地の確保という点からも、ミッドウェー島の攻略が必要とされるようになった。1942年6月、日本海軍は、空母四隻を投入したが、日本軍の暗号を解読することによって攻撃を事前に知っていた米海軍は、三隻の空母を配置して日本軍を待ち受けていた。その結果、ミッドウェー海戦は日本海軍の大敗に終わった。さらに1943年2月、ソロモン諸島のガダルカナル島をめぐる激しい攻防戦は、アジア・太平洋戦争の転換点となった。以後、連合軍は、質量とも急速に戦力を拡充してゆき、日米の戦力比が逆転し、その後、日本軍は制海権・制空権を失った。
2)中国戦線
 中国戦線では、苦戦がつづく日本軍は各地で残虐行為をくりかえし、1940年から翌年にかけて、華北の共産党の支配地域で奪いつくし・殺しつくし・焼き尽くすという軍事作戦を行ったが、これを中国名で三光作戦と呼ばれている。また、日本軍は、満州などで毒ガスや細菌などの生物化学兵器の開発をすすめ、多数の中国人やロシア人を実験の犠牲にした。毒ガスなどの生物化学兵器の使用は国際法で禁止されていたが、日本軍はハルピンに細菌戦部隊である731部隊を設けた。
3)本土空襲
 1944年6月には、日本が戦争を続けるうえで絶対確保すべき地域(絶対国防圏)としていた南太平洋のマリアナ諸島のサイパン島が米軍に占領され、日本の敗戦が決定的となった。そのため、東条内閣は総辞職し、陸軍大将の小磯国昭内閣が成立したが、大本営政府連絡会議を最高戦争指導会議と改めるなど、戦争を終わらせようという動きはなかった。サイパン島の陥落によって米軍の爆撃機B29による無差別爆撃が本格的に行われ、東京や大阪、名古屋、さらには地方都市まで焼き払われ、多くの死傷者を出した。1945年3月10日の東京大空襲では10万人以上の死者を出すほどの被害を受けた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)沖縄戦
 沖縄では、1945年3月、アメリカ軍が上陸し、戦闘が3か月も続いた。この間、日本軍が県民を組織して徹底抗戦したうえに、生活の場が戦場となったため、県民の犠牲は大きく、戦闘の妨げやスパイ容疑を理由に殺された人もいた。さらに、日本軍の関与によって集団自決に追い込まれた人もいるなど、沖縄戦は悲惨を極めた。沖縄戦での戦死者と戦闘による犠牲者は日本側約18万8000人であったが、そのうち沖縄県民は12万人以上であった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
5)末期の戦い
 戦場では兵器や食料が途絶えたため、航空機によるアメリカ軍の艦船への体当たり攻撃(特攻)が始まるなど、降伏や捕虜となることを恥じとして教育されてきた兵士は「玉砕」(全滅)を重ねて壊滅していった。1945年には国内の製油工場に石油がなくなるなど、日本はすでに戦争を続ける基礎的な能力を失っていた。4月に小磯内閣にかわり、海軍大将の鈴木貫太郎内閣が成立して終戦も期待されたが、「本土決戦」や「一億玉砕」がとなえられ、日本本土決戦の準備が進められた。

 
 

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