5 ブロック経済圏の形成
1)世界恐慌への対応
 世界恐慌に対し、欧米列強は、自国と植民地などを中心に排他的なブロック経済圏をつくって貿易の統制や管理を強めて乗り切ろうとした。アメリカは1933年、フランクリン・ローズヴェルト大統領によるニューディール政策を実施した。これは政府が積極的な公共事業を行って失業者の雇用を促進し、購買力の回復をねらったものである。一方、イギリス・フランスは、植民地や旧植民地との関税の減免を行って圏内の結束を強化し、日本やドイツなどには高い関税を課し貿易から締め出した。植民地を持たないドイツ・イタリアはブロック経済で打撃を受けるなかでファシズム政権が成立し、植民地獲得に乗り出した。
2)日本の対応
 日本は朝鮮や満州、華北を一体化した日本の円ブロック経済圏を建設して恐慌からの脱出を図ろうとした。そのため、政府は経済統制を強めながら恐慌対策と軍需拡大のための予算を増やした。この頃、大蔵大臣として活躍した高橋是清は、金本位制を停止し、政府が通貨発行額の管理・調整と、対外決済のための金の管理・調整を行う管理通貨制度に移行させるとともに、多額の赤字国債を発行して不足する予算を補った。その結果、円安が進み、それを利用してソーシャル・ダンピングと非難されるほどの安値で綿糸や綿布などを輸出していった。また、大胆な賃金カットで製品価格を抑え、ブロック経済に対抗した結果、1933年には恐慌前の経済水準に回復することができた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 一方、農村はながく恐慌の影響から抜け出すことができなかった。政府は、産業組合を中心に自力更生を図る農山漁村経済厚生運動をすすめ、負債整理組合法などによって農村を立て直そうとしたが、農村が景気を回復するのは、1937年ころまで待たなければならなかった。
 政府や軍部は、窮乏する農民に対して満州への農業移民を奨励した。1932年から長野県や東北をはじめとする農村から多くの人々が満蒙開拓団として入植していった。戦争で日本国内の労働力が不足し始めると、1938年からは農家の二男・三男を中心とする青少年を訓練して満蒙開拓青少年義勇軍を組織し、満州へ送り込んだ。入植地の多くは日本が強制的に買い上げた中国農民の土地であった。

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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

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