Ⅱ 戦局の悪化と国民生活
1 連合国の反抗
1)なぜ戦争は回避できなかったのか
 日本政府は臨時軍事費によって膨大な軍備拡充を整えることができた。その結果、アメリカの戦時体制への移行が遅れていたこともあって、開戦時の太平洋地域においては、日本の戦力はアメリカを上回っていたのである。ここから、短期決戦に持ち込めば、英米を屈服させる見通しがあるという幻想が生まれることになった。また、政府は統帥権の独立に災いされて軍部を充分にコントロールすることができなかった。さらに、日本の戦前の国家体制は、国家諸機関の分立制を特徴としており、全体を見通す体制とはなっていなかった。総理大臣の地位は国務大臣中の第一人者にすぎず、各省の行政長官でもある各国務大臣に対して命令する権限を持たなかった。この頃、海軍は軍備拡充に必要な予算と物資を獲得するため、武力南進策を推進する、しかし、充分な勝算のない対米英戦はできるだけ回避したいというのが本音だった。しかし、組織的利害を大きな起動力として動き始めた海軍は、部内の強硬派にも突き上げられながら、対米英戦争を決意せざるを得ない状況に追い込まれていくのである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)ヨーロッパの反抗
 ヨーロッパでは、1943年2月にソ連軍がスターリングラード(現ボルゴグラード)の激戦でドイツ軍を破ると、戦局は連合国側に優位となり、9月、イタリアが降伏した。
3)カイロ宣言
 1943年11月、エジプトのカイロでローズヴェルト米大統領・チャーチル英首相・蒋介石中国政府主席が会談して、日本の降伏などを要求するカイロ宣言を発表した。宣言の主な内容は、日本の無条件降伏を要求し、日本が日清戦争以降、清からとった地域の返還と第一次世界大戦以後に奪った地域を日本からはく奪するとし、また、朝鮮の自由と独立が表明されていた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4)テヘラン会談
 同じ11月、米英両国の首脳はソ連のスターリン首相とイランのテヘランで会談し、ソ連はドイツ降伏後に対日参戦することを約束した。
5)フランスの解放
 1944年になると、ソ連軍はドイツに大攻勢をかけ、連合軍もフランスのノルマンディーに上陸してパリは解放され、連合国側が決定的に優位に立った。
6)ドイツの敗北
 1945年4月、ソ連軍は東方から、英米軍は西方からドイツの首都ベルリンに入り市街戦となったが、ヒトラーは自殺し、5月7日にドイツは無条件降伏した。
 

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