2 太平洋戦争
1)日米交渉
 日米間の緊張が高まるなかで、1941年4月から日米関係を調整し、日米戦争を回避するための外交交渉が日米間で開始される。担当したのは駐米野村大使と国務長官ハルである。この交渉で最大の争点となったのは、中国問題だった。アメリカ側は日本軍の中国からの撤兵を要求し、近衛首相が何らかの形で撤兵を実現することによって交渉の決裂を回避しようとしたが、東条英機陸軍大臣はこれに強硬に反対した。
2)政府の対応
 9月の御前会議で帝国国策遂行要領が決定され、10月下旬を目標にアメリカ・イギリスなどとの戦争準備を終わらせる方針が決められた。10月、近衛内閣に代わって、強硬に戦争を主張する東条英機内閣が成立すると、11月5日の御前会議において、12月初旬に米英に対して武力発動することが確認され、日米開戦は決定された。11月26日にアメリカよりハル・ノートが提示されたが、日本政府がハル・ノートの検討を終える前に、機動部隊は真珠湾攻撃に向けて発進していたのである。
3)開戦
(日英戦争の開始)
 1941年12月8日午前2時15分(日本時間)日本軍はイギリスとの外交交渉も最後通牒も宣戦布告もないまま真珠湾攻撃よりも1時間20分早く、いきなりイギリス領のマレー半島のコタバルに強襲上陸を開始した。この作戦で日本軍に利用されたのがマレーのトラとあだ名されたハリマオであった。ハリマオの本名は谷豊。福岡県出身で、わずか31歳でその生涯をマラリアに肺炎を併発してジョホール・バルの病院で閉じた青年であった。彼の両親は彼が1歳の時にマレー半島のトレンガヌへ行き、そこで理髪業を営む。しかし、彼が19歳の時に徴兵検査のため福岡に帰郷した。しかし身長が155㎝に足りず丙種合格。事実上の不合格であった。この年、日本軍は満州事変を起こした。翌年、そのためマレーで華僑の反日暴動が起こり、トレンガヌで末の6歳の妹が華僑に殺された。犯人はイギリス人裁判官のもとで無罪放免。豊はその復讐のため、マレーに帰って裕福なイギリス人を襲う義賊となってイギリス人に恐れられ、ハリマオと呼ばれるようになった。彼に接近したのがF機関、つまり陸軍中野学校の教官藤原岩市である。豊青年は部下100人ほどを率いて対英ゲリラ闘争を展開した。彼の行動は、日本軍のマレー半島上陸に道を切りひらき、マレー半島占領に貢献することとなった。しかし密林での激務は彼の体をむしばみ、死を早めた。
(日米戦争の開始)
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(真珠湾攻撃 東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1941年12月8日午前3時19分(日本時間)、日本海軍の機動部隊から発進した第一次攻撃隊が真珠湾への空爆を開始した。マレー半島への攻撃とともにこの戦いが太平洋戦争の開戦となった。最近の研究では、単に太平洋戦争と呼ぶのではなく、アジア・太平洋戦争と呼ぶのが正しいとされている。なぜならこの戦争は日中戦争戦争の延長として戦われたものであるとともに、日中戦争は終戦まで戦われたからである。
 ところで、私は25年前にハワイの真珠湾にある「アリゾナ記念館」に行き、今でも沈没されたままのアリゾナ艦を見てきた。その時に沈没している船から油が漏れているのが見えたが、何年か前の朝日新聞にも油漏れの記事が載っていた。70年以上たっても船から油が漏れるものなのか、ある人の話では、あれはアメリカ海軍の演出であり、その油は循環されているのだという。もし、油が漏れっぱなしでは真珠湾は油だらけになるとの意見だ。確かにアリゾナ艦は今でも現役の艦として海軍に登録されており、そのような演出も行われているのかもしれない、真実を知りたいものだ。

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