第68回日本史講座は、11月11日(土)午後2時より受講者7名で行われました。

 第21章 太平洋戦争
 Ⅰ 日米開戦と大東亜共栄圏
1 日米開戦への道
1)北部仏印へ日本軍の進駐
 中国戦線では、日本軍は、英米の支援を受けた重慶の国民政府や、中国共産党の抵抗もあって苦戦し、おもな点(都市)と線(鉄道)がようやく確保できたにすぎなかった。
 1940年、ドイツが東南アジアに植民地をもつフランス・オランダを占領すると、日本では豊富な資源を持つ東南アジアを支配する南進計画がすすめられた。そして、同年6月、フランスがドイツに降伏すると、日本は、9月、重慶への援蒋ルートの遮断と、石油やゴムなどの戦略物資の確保を目的に、仏印北部(現在のヴェトナム北部)に軍隊を派遣した。
2)日独伊三国同盟
 ヨーロッパでドイツ軍の勢いが強まると、第2次近衛内閣は、ヨーロッパとアジアでの指導的地位を相互に承認し、仮想敵国アメリカの脅威に対しては共同防衛し参戦義務を負う日独伊三国同盟を1940年9月27日、ベルリンで調印した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3)日ソ中立条約
 1941年4月、近衛内閣の外務大臣松岡洋右は、西からのドイツの脅威を受けていたソ連に対し、日ソ中立条約をモスクワで調印し、南進を進めるために満州国北方の安全を確保した。しかし、同年6月、ドイツ軍がソ連に侵攻すると外務大臣松岡洋右は、ドイツに便乗して対ソ戦を主張したがこれを北進論とよぶ。こうして、日本は南進・北進のいずれかの判断がつかないまま、満州のソ連国境付近で約70万人の軍隊による関東軍特殊演習と、仏印南部への進駐を行った。
4)アメリカの対日経済封鎖
 このような日本の動きに対して、アメリカは1939年には日米通商航海条約を廃棄したが、さらに、くず鉄の対日輸出を禁止した。1941年8月、日本の南部仏印進駐に対抗し、日本への石油輸出全面禁止を決定した。 
 

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