3 積極外交と山東出兵
1)田中内閣の積極外交
 1927年に成立した政友会の田中儀一内閣は、北伐からの日本の権益を守るため、山東省に住む日本人保護を名目に第一次山東出兵を行った。そして、東方会議を開き、満州と内蒙古での権益確保と治安維持のために強硬方針でのぞむことを決定し、北伐が再開されると第二次山東出兵を強行し、済南で北伐軍と衝突した済南事件が起こった。日本はさらに第三次出兵を行って兵力を増加して北伐軍の北上を抑えようとした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 日本政府は満州の軍閥張作霖(ちょうさくりん)と交渉し、これを利用して満州の権益拡大を求めたが、張作霖が日本のこうした政策に抵抗したので、関東軍の河本大作(こうもとだいさく)らは1928年6月、北京から奉天に引き上げる途中の張の列車を爆破した。陸軍は張作霖爆殺事件を中国側のしわざだと公表したが、国際的に疑惑をもたれ、また、国内の野党からは満州某重大事件として攻撃され、真相を隠した田中内閣は昭和天皇の怒りにふれ総辞職した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2)普通選挙の実施
 1928年、田中内閣のもとで初の普通選挙による総選挙が実施され、政友会217議席、民政党216議席となり、二大政党が圧倒的多数を占めた。しかし、厳しい取り締まりにもかかわらず、社会民衆党4議席、労働農民党2議席、日本労農党1議席、地方無産党1議席と無産政党が8議席を獲得した。
3)共産党への弾圧
 田中内閣は1928年3月15日に日本労働組合評議会や日本共産党への弾圧を行ったが、これを三・一五事件と呼ぶ。同年、最高刑を死刑とする治安維持法の改正を緊急勅令で行った。この改正にさいして、労働農民党の代議士の山本宣治は議会で改正に反対したため、1929年、東京で右翼によって暗殺された。また、政府は思想弾圧のための特別高等警察(特高)を全国に拡大したうえで、1929年、再び共産党を徹底的に弾圧したが、これを四・一六事件と呼ぶ。この結果、対立や分裂をくりかえしていた無産政党などは急速に衰えていった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 次回の第64回日本史講座は7月22日(土)午後2時よりおこなう予定です。

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