(はじめに)
 この旅行記は、私が友人と「JTB旅物語 モロッコ全世界遺産巡り 13日間」に参加して学んだことや感じたことをまとめたものである。このツアーの参加者は、夫婦3組と女性2人連れが1組、我々男性2人連れが1組、女性の個人参加が4名、男性の個人参加が7名、父母と子供の家族連れ3人の総計24名であった。特に、今回は個人参加が11名と多かったのは、個人参加の負担金が3万円と比較的安かったことがその理由である。さらに、男性の参加者が比較的多かったのは、モロッコという辺境の地というイメージが強かったからであろうか。また、男性の個人参加者の中には、海外旅行の回数が80回以上あるという「旅の達人」が数名おり、その中の一人は、夜に町を歩き回ってその国の裏の社会(本当の姿)を知ろうとする人物もいた。
 7月28日(土)の夜に関空を飛び立ち、カタールのドーハで乗り換え、チュニジアの首都チュニスを経由してカサブランカの空港に到着したのは、現地時間(サマータイムで時差は7時間)で29日(日)の午後4時半となっていた。そのあと専用バスでカサブランカからモロッコの首都ラバトのホテルに到着したのは午後7時ころであった。
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(モロッコの地図「地球の歩き方」より)
(観光1日目)
 7月30日(土)午前8時にバスでラバトの市内観光へと向かった。最初に訪れたのは、ムハンマド5世の霊廟とハッサンの塔である。ムハンマド5世という人物は、現在のモロッコ国王ムハンマド6世の祖父に当たり、1956年にフランスから独立を勝ち取り、アラウィー朝第13代の王と称した人物である。この霊廟はモスクでもあり、博物館にもなっている。
   ムハンマド5世の霊廟  
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 1971年にハッサン2世(現国王の父親)の命によって王国の解放者である父親のモハメッド5世のために建立され、スペインモロッコ建築とモロッコ伝統芸術の傑作であるといわれている。霊廟の4つの入口と廟内の四隅には、白い服に赤いマントをまとった衛兵が立っていた。写真撮影を求めたところ気軽に応じてくれた。衛兵の横に並んで写真を撮ってもらったが、衛兵の体格の良さにびっくりした。
   白い服に赤いマントをまとった衛兵 
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 霊廟内はとてもきらびやかで、中央にはムハンマド5世の石棺が安置されていた。
ムハンマド5世の石棺
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この霊廟の同じ敷地内にハッサンの塔と呼ばれるミナレット(尖塔)がある。この塔は、1195年にムワッヒド朝のヤクーブ・マンスールがモスク建設に着手したが、その4年後、彼の死によって工事は中断し、未完のまま残された。それでも塔の高さは44m(予定ではその倍の88mになるはずだった)、四角形の一辺が16,2mもある。残念ながら現在、塔には登ることができず、外観を見学したのち、私たちはバスでリフ山脈の麓にある小さな町ティトゥアンへと向かった。ラバトから約294㎞、約6時間の行程である。
ハッサンの塔
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私たちがティトゥアンへと向かった日はモロッコの独立記念日で祝日となっており、タンジェで式典があるらしい。国王ムハンマド6世の一行もラバトからティトゥアンを通ってタンジェへと向かっていた。私たちのバスは、交通渋滞を避けるために国王の一行とは別の道を通ったことにより、スペイン領セウタの町の近くを通り、ジブラルタル海峡を見ることができた。
 さて、現地で購入してきた日本語訳のゴールデンブックシリーズ「モロッコ」によると、ティトゥアンという町は、「1307年にマリーン朝のアブー・タビによって建設され、海に近いことから海賊の巣窟となったが、カスティリヤのエンリコ3世が1399年に町を完全に破壊した。16世紀になってアンダルシアから逃れてきたイスラム教徒とユダヤ人によって再建され、2世紀後のアラウィー朝のムーレイ・イズマイルが町に西洋との交易の中心地の役割を与えた。1857年にティトゥアンはスペインに包囲され、1860年~62年までスペインの支配下に置かれた。町には現在もその頃の面影が残っている。」と書かれている。どうりでこの町の雰囲気がスペインのアンダルシア地方とどことなく似かよっていると感じられたはずである。私たちは、世界遺産に登録されている旧市街のスーク(市場)を散策したのち王宮を訪れたが中に入ることができず、門の前で各自写真撮影をしたのち、バスでタンジェへと向かった。
 
 ジブラルタル海峡が見える
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ティトゥアンの旧市街のスーク
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