第65回日本史講座のまとめ①(「満州国」の承認)
4 「満州国」の承認
1)「満州国」との国交樹立
1932年9月、斎藤実(まこと)内閣は、日満議定書を結んで「満州国」を承認し、満州を日本の実質的な植民地とした。1934年、「満州国」は「満州帝国」となった。関東軍司令官が駐満大使と関東庁長官を兼ね、軍部が満州を支配した。また、日本が「満州国」を承認した9月15日、中国の抗日ゲリラが満鉄所有の撫順炭鉱を襲い、翌日、日本軍は近くの平頂山の村民をゲリラと関係あるとして大量虐殺した、「平頂山事件」が起こった。犠牲者の数は、日本の研究者によると400~800人で、中国によると3000人にものぼるといわれている。軍部は、「満州国」周辺の山海関(さんかいかん)を攻撃し、さらに華北へも攻撃をすすめ、中国と塘沽(タンクー)協定を結んで、満州と熱河省を事実上の支配地とした。そして、長城以南の非武装地帯にかいらい政権である冀東(きとう)防共自治政府をつくって、華北を中国から切り離す準備をはじめた。
2)国際連盟の動き
1933年の国際連盟では、リットン報告書に基づいて、「満州国」の否認と日本の権益尊重などを内容とする勧告が日本以外42か国の賛成をえて採択されると、日本の全権松岡洋右は国際連盟からの脱退を宣言した。
3)軍部の政治介入
1934年、斎藤内閣が汚職事件で総辞職すると、かわって海軍大将の岡田圭右内閣が成立した。陸軍省はパンフレット「国防の本義と其強化の提唱」を発行し、総力戦にそなえて国防国家建設の必要性を説くなど、軍部は公然と国家のあり方を論じるようになった。