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第74回日本史講座のまとめ⑤(日米安保条約の改定)

 第24章 高度経済成長と国際社会
 Ⅰ 高度経済成長
1 日米安保条約の改定
1)条約の改定
 1960年代に入ると、日本の政治と経済の仕組みは、日米関係を中心とする国際関係の転換とともに大きく変化した。転換点となったのは、1960年1月19日に岸首相がワシントンで調印した日米安全保障条約(新安保条約)であった。
 新条約では、日本の自立性を認める条項が入る一方で、日本の防衛が日米共同責任とされ、在日米軍が極東地域の戦略に組み込まれることが懸念された。1960年5月、警官隊500名が衆議院に待機するなか、50日間の会期延長と条約改定の批准が強行採決されると、安保改定阻止国民会議を中心に反対運動が急速に盛り上がっていった。
2)60年安保闘争
 強行採決が行われると連日のデモが国会を包囲し、東京の都心部をうずめた。そして1960年6月15日、参議院では、新安保条約の批准採決が行われようとしていた。国民会議は、第18次統一行動を行い、労働組合のストライキを含み、最大規模の動員によって、国会を包囲しようと決めており、そこで事件が起こった。この事件について大江氏によると、「きっかけをつくったのは、右翼だった。夕刻、児玉誉士夫配下の維新行動隊が、トラックで、国会裏の女性の多い新劇人会議と、子供づれの主婦のデモの隊列につっこみ、あらんかぎりの暴行をはたらいた。…すでに国会を二周した全学連主流派のデモの隊列は国会南通用門付近でこの惨事の報をきいた。…そこに、極左指導部の国会突入戦術が作用した。夕闇の国会構内に約700人の学生たちがはいると、警官隊は袋の口をとじ、狼のように学生におそいかかった。一人の女子学生が殺され、重傷者は数知れなかった。…岸内閣は、深夜の閣議をひらき、『国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動にほかならない』という政府声明を発表した。この事件はだれの計画的行動であったのか。事件の発端は右翼による挑発と、この挑発を黙認した警察によってつくられた。挑発にのったのは、この挑発を好機として国会突入戦術を実行に移した全学連主流派の指導部であった。そして、のちになって、このときの全学連主流派の最高指導者の一人は、TBS放送で、このとき、かれらが反共右翼の大立者(おおだてもの)の一人田中清玄(せいげん)から金をもらい、警視庁首脳部ともしばしば会って談合していた事実を告白した。判明している事実はそこまでであるが、このことから、この事件は、かつての松川事件などとおなじように、国民の政府批判の目を、『国際共産主義の企図に踊らされつつある計画的行動』にそらせ、反対運動を分裂させ、孤立させるための謀略ではなかったかという疑惑さえでてくる。」(小学館「日本の歴史31」)と指摘している。
 激しい反対闘争によって、予定されていたアイゼンハワー米大統領の訪日は中止に追い込まれ、条約は参議院で承認できないまま、憲法61条により30日で自然承認され、その直後に第2次岸内閣は総辞職した。この安保闘争の歴史的意義はどこにあるのか、大江氏によると、「これ以後の歴代自民党内閣の首相が憲法改正を口にすることがタブーとなり、自衛隊の海外派兵や核武装も公然とは口にできなくなったのである。」と指摘している。
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(東京書籍「図説日本史」より) 
 第75回日本史講座は3月24日(土)午後2時より行う予定です。
by YAMATAKE1949 | 2018-03-17 10:41 | 日本史講座