2 多党化とロッキード事件
1)新政党の出現
 高度経済成長による急速な都市化とともに、「支持政党なし」層が増え、1960年に民主社会党(のちに民主党に改称)、1964年に創価学会を基盤とする公明党が結成された。こうした多党化傾向は、石油ショック以降も進み、日本の政治も大きく変化した。
2)三木政権の成立
 1974年の参議院選挙では「金権選挙」の批判をあびるなかで自民党が敗北し、田中首相は辞意を表明した。後継争いは党内多数派で田中の後継者である大平正芳、はやくから田中を批判してきた三木武夫、福田赳夫に中曾根康弘が加わって展開された。そして少数派閥であったが、「クリーン政治」をかかげる三木内閣が成立した。
3)ロッキード事件
 1976年にアメリカ上院外交委員会多国籍企業小委員会において、ロッキード社が、日本に航空機や軍用機を売り込むために巨額の政治工作資金を使っているとの証言があった。右翼の黒幕である児玉誉士夫、小佐野賢治の関与と、その資金が丸紅幹部の示唆で日本政府高官に渡ったことが明らかとなり、ついに田中前首相が逮捕された。これをきっかけに、新自由クラブが、1977年には社会市民連合(のちに社会民主連合に改称)が結成され、多党化傾向にいっそう拍車がかかった。
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(三省堂「日本史B」より)
4)自民党内の政権交代
 こうしたなかで行われた1976年の総選挙で、政権政党の自民党はかろうじて過半数を維持した。三木首相は総選挙敗北の責任をとって辞任し、福田赳夫内閣が成立し、1978年に日中平和友好条約を正式に調印した。次の第1次大平正芳内閣のもとで行われた1979年の総選挙でも自民党公認候補の当選数は過半数に達せず、「保革伯仲状況」がつづいた。しかし1980年、第2次大平内閣のもとで行われた衆参両院同時選挙では、選挙期間中大平首相が亡くなるなか、自民党は大勝して過半数割れの状況を脱し、鈴木善幸内閣が成立した。
3 生活保守主義と行政改革
1)生活保守主義の広がり
 1970年代末から、社会はしだいに保守化傾向を強めていった。企業の減量経営が継続され、所得の上昇がにぶり雇用不安が増大したために、人々は、これまでの生活水準を維持することに関心を集中させるようになった。
2)中曽根内閣の行政改革
 政府は、大量の赤字国債発行によって大幅な赤字となった財政の再建をめざす行政改革を本格的に開始した。1981年に第2次臨時行政調査会(臨調)が発足し、1982年に鈴木内閣にかわって成立した中曾根康弘内閣は、行政改革の実施をかかげ、1985年に電電公社はNTTに、専売公社はJTに移行し、1987年には国鉄は分割・民営化を行いJR6社に移行した。しかしこの間、防衛費だけは例外とされ、1987年度予算では、「対GNP1%」の制限をついに突破した。
 こうした動きは、アメリカのレーガン政権やイギリスのサッチャー政権がとった「新保守主義」とよばれる政策とも歩調をあわせたものであった。

 2014年7月26日の第1回の講座から約4年かけて学習してきましたが、いよいよ次回の第77回日本史講座で最終回となります。次回は連休のために4月は休み、5月12日(土)午後2時より行う予定です。
 
 
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