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チュニジア旅行記②

(観光2日目)
 2月8日(月)の朝、バスでチュニスからドゥッガへと向かった。『歩き方』によると、ドゥッガの遺跡について、「紀元前2000年には、ヌミディア人がここに住み始め、カルタゴからフェニキア人がやって来る紀元前4世紀、ヌミディアの王国の重要な都市『トゥッカ』として栄えたといわれている。紀元前3世紀にはカルタゴの支配下におかれたが、第2次ポエニ戦争の終わりの紀元前202年に再びヌミディア王国マシニッサの領土になった。カルタゴの滅亡後の紀元46年に、ヌミディア王国がローマに敗れた後、この土地もローマ帝国の領土となる。ドゥッガは紀元2~4世紀に繁栄を極め、当時市内には少なくとも1万人もの人々が住んでいたという。しかし、その後ヴァンダル人の支配下でゆっくりと町は衰退に向かい、ビザンチン帝国時代には要塞化された。19世紀末に考古学者たちが発掘を始めた頃、この廃墟にはアラブの村人たちが細々と暮らしていただけだったという。  1997年に、アフリカを代表するローマ・ビザンチン複合遺跡として世界遺産に指定された。」と書かれている。ヌミディアとは、ギリシア語で「遊牧民」を意味する「ノマデス」からきたことばで、ローマ人たちは、北アフリカのベルベル系の半遊牧集団のことをヌミディア人と呼んでいた。ベルベルとはギリシア語のバルバロイ(聞き苦しいことばを話す者=野蛮人)からきたことばで、英語のバーバリズム=野蛮の語源である。
 
   ドゥッガの遺跡
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  上の文章を解説すると、紀元前2000年頃には北アフリカには現在のベルベル人の祖先にあたる半遊牧民のヌミディア人が住んでいた。紀元前4世紀には、この都市は『トゥッカ』として繁栄していた。しかし、紀元前3世紀になると、フェニキア人の殖民都市カルタゴが地中海貿易で繁栄すると、トゥッカはカルタゴの支配下におかれてしまった。ところが、第2次ポエニ戦争でカルタゴがローマに敗れたことにより、この都市はマシニッサとよばれる王により再びヌミディア人の王国の領土となった。しかし、第3次ポエニ戦争により完全にカルタゴが滅ぼされると、ここもローマの支配下に入るようになった。紀元4世紀後半にゲルマン民族の大移動が始まると、この地はゲルマン系のヴァンダル人の支配下におかれてしだいに衰退していった。ヴァンダル人のあとこの地を支配したのが、東ローマ帝国=ビザンチン帝国であり、この時代にこの地は要塞化された。その後この地は廃墟となり、19世紀末に考古学者によって発掘され、20世紀末に世界遺産に指定されることになったということである。
さて、遺跡に入って先ず目にするのは、巨大な円形劇場である。『歩き方』によると、168年にドゥッガの指導者の一族のひとり、マルクス・クアドルトゥスによって建てられたとあるが、マックレムさんによると、この劇場は3500人まで収容できるという。

 ドゥッガの遺跡 円形劇場跡
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  私は以前にトルコで、これよりも大きなローマ時代の円形劇場に入ったことがある。そのとき、舞台から観覧席の最後部までマイクなしの声で聞こえるか試したが、充分に聞こえるように設計されていることを確認した。古代ローマ時代の技術に感心したものだ。劇場のあと、マーキュリー神殿(商業の神)や古代のマーケットの遺跡を見学したあと、巨大な神殿遺跡に向かった。この神殿には、ジュピター(ゼウス)、ジュノー(ヘラ=ゼウスの妻)、ミネルヴァ(アテナ)の神々の像があったといわれているが、残念ながら現在は何も残っていなかった。偶像崇拝を否定するイスラム教徒のアラブ人によって破壊されたのかどうか何の説明もなかった。

   ドゥッガの遺跡  神殿跡
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 さて、チュニジアに限らず古代ローマの遺跡には、古代ギリシア文化の影響が色濃く見られる。ドゥッガの遺跡においても、ギリシアの神々やコリント式、エンタシス(柱身の胴につけられたわずかなふくらみ)などのギリシアの建築様式がたくさん見られる。いかにローマ人たちがギリシアの文化の影響を受けていたかを実感することができる。「ローマ人はギリシアを征服したが、文化の面ではギリシアに征服された。」といわれるように、古代ローマ人は、積極的にギリシア文化を吸収していった。それではなぜ古代ギリシアでは、優れた文化を持つことができたのか。その理由の一つは、古代ギリシア文化を担ったのは、アテネなどの都市国家の自由市民であり、政治的にも宗教的にも何ものにも束縛されることなく自由に学問を育むことができたからである。万物の根源は何かといった哲学的な問題を自由に思考することが可能であった。絶対的な神による創造というような、唯一神を持たなかったことも重要である。二つ目の理由は、ギリシアの自由市民たちが、文化を育むことができる自由な時間をもつていたことである。なぜギリシアの市民たちは自由な時間をもつことができたのか、それは、彼らが生産労働に従事せず、奴隷に任せていたからである。そのため自由市民たちは政治や学問や芸術に専念することができたのである。三つ目の理由は、西アジア文明と呼ばれる高い文明の影響を受けることができたからである。西アジア文明とは古代エジプトやメソポタミア文明などを指す。その文化の影響のなかでも特にフェニキア人によって普及されていた便利な表音文字を持つことができたからである。地中海貿易で活躍したフェニキア人は、エジプトの象形文字から発達したシナイ文字をもとにしてフェニキア文字といわれる表音文字を普及させた。ギリシア人たちはこの文字を利用することによって文化を発達させることができたのである。この文字がローマに伝わり、現在世界中に普及したアルファベットつまりローマ字である。さて、遺跡には、小さな浴場が集まったキクロプスの浴場がある。この浴場からは、メインストリートに出ることなく(つまり人に見られることなく)隣の売春宿に入ることができる構造になっている。トルコでは、図書館の地下道を通って売春宿に入ることができるのと同じ構造である。また、水洗式の公衆トイレの遺跡も残っていたが、これもトルコで見た遺跡と同じである。ローマ帝国が支配した地中海周辺の地域には、水道橋・公衆浴場・公衆トイレ・売春宿など同じような遺跡が残されており、古代地中海世界というものを実感することができる。ドゥッガを訪れたあと、私たちはレストランで昼食をとり、ケロアンへと向かった。

古代ローマ時代の水洗式トイレの遺跡
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 ケロアンでは、カーペット工房を見学した。

カーペット工房(手前は、ベルベル織りで裏側から織っている。)
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 そのあと7世紀につくられたメディナ(旧市街)を散策したのちホテルに入った。ホテルは古く暖房もきかなくて部屋が寒く、お風呂のお湯が途中で水になってしまった。妻はその日お風呂に入れなかった。
 
by YAMATAKE1949 | 2011-08-11 21:38 | 旅行記