人気ブログランキング | 話題のタグを見る

ドイツ旅行記③

(観光3日目)
 8月8日(日)の午前8時、バスでドレスデンからライプチヒへと向かった。距離は114㎞で所要時間は約1時間45分の行程である。バスに表示されている温度は何と17℃であり肌寒さを感じた。
 ライプチヒという町の名前は、リプツィ(菩提樹)に由来すると言われているが、今でも菩提樹は街路樹としてたくさん植えられている。町は13世紀にマイセン王から、帝国内での年に2回の大きな市が認められ、商業、金融の町として発展した。15世紀初めにはドイツで3番目に古いライプチヒ大学が設立され、音楽の町としても有名で初めて民間の管弦楽団が設立された。また、17世紀には印刷、出版も盛んとなり、世界初の雑誌、新聞が出版された。さらに見本市(メッセ)が初めて行われた町としても有名で、今日でも春と秋に開かれる国際見本市には、世界中から多くの人が訪れている。
 私たちは最初にバッハがオルガニスト兼指揮者を務めたトーマス教会を訪れた。

  バッハがカントルを勤めた聖トマス教会 
ドイツ旅行記③_a0226578_22245158.jpg


 この教会の入口の前にはバッハの像が立っている。この像をよく見ると上着のポケットの中身が外に出ている。それはお金がないということをアピールしている。また、ベストのボタンがひとつだけはずれたままになっているのは、指揮棒を素早く出し入れするためだという説がある。と現地ガイドのフルヤさんが教えてくれた。

  ライプチヒのバッハの肖像    
ドイツ旅行記③_a0226578_22203735.jpg


 教会の斜め前にバッハ博物館がある。短い自由時間の時に2度と来るチャンスはないだろうということで、私たち夫婦はバッハ博物館に入場した。館内には、バッハの直筆の楽譜や彼が演奏した楽器などが展示されていた。また、バッハの曲も聴けるようになっていたが、残念ながら時間がなく、解説はドイツ語と英語であり、じっくりと英語を訳している時間もなく、あまり成果もないまま退館した。ライプチヒではその他に大時計が美しかった旧市庁舎やベルリンの壁崩壊への第一歩となった集会が行われたニコライ教会を外から見学した。

 ドイツ統一の契機となったニコライ教会
ドイツ旅行記③_a0226578_2225424.jpg


 現地ガイドのフルヤさんの話では、1989年、ニコライ教会に7万人が押し寄せたという。この教会に7万人はどう考えても入れないであろうと質問すると、人が教会の周りにあふれ、警官はこれを力で押さえようとしなかったことが、壁の崩壊に繋がったこと。同じ1989年、中国の天安門でも民衆が立ち上がったが、中国政府はこれを武力で弾圧したために中国の民主化は成功しなかったのであると説明してくれた。
 ところで、以前ドイツに留学していた私の教え子に聞いた話であるが、ドイツでは、25℃を超えたら学校が休みになるとのことであったが、今でも同じであるかと尋ねたが、今では27℃になると学校が休みになると教えてくれた。自分の子供も長い夏休みを終えてやっと学校に行ったと思ったら、27℃で家に帰ってきたと言って嘆いていた。子どもと先生はこの制度を喜んでいるらしいが、日本の学校では考えられないことである。
 ライプチヒには若きゲーテの像がある。彼の顔や身体は彼が学んだライプチヒ大学に向けられており、芸術に燃える姿をあらわしているという。しかし、右足は違う方に向けられている。それは彼の学生時代に足繁く通った酒場の方を向いているらしい。また彼の像の台座の左右には、彼が愛した恋人の像が描かれていた。

  ゲーテの肖像 右足は地下の酒場に向いている 
ドイツ旅行記③_a0226578_22221237.jpg
   
  
 また、メドーラパサージュといいうショッピングアーケードの入口のところに立っている像は、ゲーテの作品の主人公であるファウスト博士と悪魔メフィストフェレスである。その脇の階段を下りていくとゲーテが学生時代によく通っていた酒場がある。作品の中でもファウストがメフィストフェレスに連れられてやってくる酒場として登場させたので、ライプチヒの名所となっている。

  ファウスト博士と悪魔メフィストフェレス 
ドイツ旅行記③_a0226578_10243771.jpg

   
 昼食は、ドイツ風田舎料理、ビールはライプチヒの白(小麦)ビールを味わった後、私たちは、ワイマール憲法やワイマール共和国で有名な町、ワイマールへと向かった。ライプチヒから123㎞、約2時間の予定である。
 ワイマールには午後3時に到着した。現地ガイドの名前はアレキサンダーさん、今回の旅行では、唯一のドイツ人男性ガイドであった。彼によると、ワイマールの人口は6万人、日本人は100~200人、観光客は年間300万人である。訪れた日が日曜日であったこともあり、観光客の多さには驚いた。この町はゲーテが26歳であった1775年に、ワイマール公国のカール・アウグスト公に招かれて、82歳で亡くなるまでの人生の大半を過ごした場所である。また、ゲーテの招きでワイマールにやってきたシラーが1802年から亡くなる1805年まで住んだ町としても有名である。私たちはこの町では入場観光はできなかったが、ゲーテが住んでいたゲーテハウスや、ゲーテの「ファウスト」やシラーの「ウイリアム・テル」が初演された国民劇場、劇場前で立つゲーテとシラーの像を見学した。
   
  ゲーテの家
ドイツ旅行記③_a0226578_22311595.jpg

  国民劇場の前のゲーテとシラー 
ドイツ旅行記③_a0226578_22322533.jpg


 この国民劇場で、1919年に憲法が採択され,ドイツに共和国が誕生したのであり、そこからワイマール憲法・ワイマール共和国と呼ばれるのである。ルターの肖像画で有名なクラーナハの祭壇画のあるヘルダー教会、金文字の時計を持つ市庁舎などを見学した。さらにマルクト(マーケット)広場にあるホテル・エレファントを見学したが、このホテルはバッハ・メンデルスゾーン・リスト・ワーグナー・トルストイなどが泊まった由緒あるもので、ヒトラーもここに泊まり、バルコニーから演説をしたらしいが、このバルコニーには人形が置かれていた。
 
  ホテル・エレファント このバルコニーでヒトラーが演説した  
ドイツ旅行記③_a0226578_22341562.jpg

 
 短い自由時間の時に、私たち夫婦はゲーテの人形が置かれているお土産屋さんに入り、ゲーテの詩が書いてある紙のナプキンを購入した。ワイマール観光の後、私たちはアイゼナハへと向かった。ワイマールからの距離は83㎞、約1時間30分の予定である。
 アイゼナハは旧東ドイツ領内であったが、旧西ドイツに近く、自動車の町として知られており、統一後はヨーロッパの最先端を行くオペル社の生産工場が置かれている。私たちは、この町のレストランで夕食をとり、郊外のホテルへと向かった。ホテルには午後8時頃に到着したが、日がまだ明るかったので、外の空気を吸うためにホテルの部屋から抜け出した。外の景色はすばらしく、明日行く予定のヴァルトブルグ城がかすかに見え、その周りに二重の虹がかかり何とも言えない美しさであった。

  ホテルから見たヴァルトブルグ城
 
ドイツ旅行記③_a0226578_10373499.jpg

by YAMATAKE1949 | 2011-08-13 22:34 | 旅行記