モロッコ旅行記③
7月31日(日)午前8時にバスでシャウエンへと向かった。タンジェから61㎞、約1時間の行程である。シャウエンとは、アラビア語で「角」を表す言葉で、ティースカ山(2050m)とメッグ山(1616m)の二つの峰が2本の角のように見えるのでそう名付けられた。
シャウエンのメディナ(旧市街)から二つの峰が2本の角のように見える
シャウエンは、現王朝のアラウィー朝を創建したムーレイ・ラシッドが、1471年に建設した都市で、1492年以降、スペインから逃れてきたイスラム教徒が加わって人口が増大した。1920年にスペイン領に組み込まれるまでこの町はイスラムの聖域として長い間異教徒に閉ざされていたため、いまだに秘境的な色合いを残している。
シャウエンのメディナ(旧市街)ブルーカラーで統一されている。
スークのパン屋さん(昔ながらの方法でパンを焼いている。)
シャウエン見学後、私たちはバスでメクネスへと向かった。距離は約202㎞の行程あるが、途中に世界遺産であるヴォルビリス遺跡を見学した。バスを降りて遺跡へ向かう途中に大きな竜舌蘭の花を見た。この花を原料として、モロッコシルクをつくるのだとガイドのフワットさんが教えてくれた。メキシコの竜舌蘭とは種類が違い、ここからテキーラはつくれないらしい。
モロッコシルクの原料となる竜舌蘭の花
この遺跡は、モロッコに現存する最大のローマ遺跡である。この場所に町が建設されたのは前1世紀にマウレタニア(ベルベル人のマウリ部族の王国 )の王、ユバ2世が王国の首都を置いた。ローマ帝国時代には、ここは帝国の西限に位置する重要な都市としてローマの属州となる。全盛期は人口2万人もの人が住んでいたという。2~3世紀に次々と大きなバジリカ(公共建築物)が建てられた。
カラカラ帝の凱旋門
(この凱旋門は当時のローマ皇帝であったカラカラ帝が全属州の自由民にローマ市民権を付与したことにより、属州ヴォルビリスでは属州税(収入の十分の一)が免除されるとともに、ローマ市民権を得るために軍隊に入る必要がなくなったことに感謝して建造された。)
フォーラム(集会所)とバジリカ(公共建築物)
ヘラクレスの功業の家
(ヘラクレスが12の功業を果たすことになる。その苦行の様子を楕円の枠で描写したモザイク)
ヴォルビリス遺跡を見学後、世界遺産古都メクネスへと向かった
メクネスは10世紀頃、ベルベル系のメクナサ族がブーフェクランの川岸に、ゼイトウナとターザという町を建設したことに由来している。この町の最盛期は17世紀、アラウィー朝のムーレイ・イスマイルの時代である。彼は、数多くの城壁や門、モスクなどを建設した。しかし、首都としてのメクネスは半世紀続いただけで、彼の死後、首都はフェズに移されて衰退し始める。そして、1755年の地震などにより大きなダメージを受けたのである。
私たちは、北アフリカで最も美しく、有名な門のひとつ、マンスール門を見学した。この門は、イスマイルが手がけた最後の建築物で、彼の死後、息子によって1732年に完成した。この門は、マンスール・エルアルージュともいわれ、それは「改宗者の勝利の門」という意味で、その由来は、イスラム教に改宗したキリスト教徒のマンスールが設計したためといわれている。
マンスール門
門の見学門後、自由時間があったので、門の前にあるエディ広場で水売りや蛇使いの大道芸を見学した。
エディ広場の水売り(中央で水のタンクを担いでいる人)
エディ広場の蛇使いの大道芸
メクネス観光後、バスでフェズへと向かった。距離は約60㎞で、ホテルに到着したのは午後6時を過ぎていた。