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歴史のとびら③ 干支(えと)のはなし

 東アジア世界では、年を表すものに元号だけでなく干支が使われてきた。中国では「辛亥革命」
、朝鮮では秀吉の侵略を「壬辰の倭乱」、日本では「壬申の乱」など。
 さて、干支の使用は殷の時代にさかのぼることができる。それは殷虚からでてきた甲骨文字(こうこつもじ)の中に見られるからである。この頃は、「日」を表すのに使われており、年として使用されるのは戦国時代か前漢の初期であろうと言われている。
 干支は、甲(こう)・乙(おつ)・丙(へい)・丁(てい)・戊(ぼ)・己(き)・庚(こう)・辛(しん)・壬(じん)・癸(き)の十干(じゅっかん)と、子(ね)・丑(うし)・寅(とら)・卯(う)・辰(たつ)・巳(み)・午(うま)・未(ひつじ)・申(さる)・酉(とり)・戌(いぬ)・亥(いのしし)の十二支とを組み合わせたものであり、60年ごとに暦の上で同じものに還るから、人が満60歳になったとき還暦の祝いをする。また、干支の干は幹であり、支は枝ということばからきたものである。
 干支の十と十二との数はどこからきたのか、十二支は月の満ち欠けを見て決めたのであり、十干は五行説から出たものである。
 五行思想は中国の最古の書籍『書経』に、「一に曰(いわ)く水、二に曰く火、三に曰く木、四に曰く金、五に曰く土」と出ている。これだと水・火・木・金・土の順になっているが、戦国時代の鄒衍(すうえん)という思想家は、五行の相勝説(そうしょうせつ)をとなえた。それは、五行相互の間は循環する関係があるという原則で、木は土に勝ち、金は木に勝ち、火は金に、水は火に、土は水に、それぞれ勝つという説であり、終始五徳説とも呼ばれる。つまり、この原則で四季のうつりかわりから王朝の興亡交代まで説明しようとする。たとえば、各王朝はそれぞれ五行のひとつにあたる徳を持っているとして、相勝説によって古くからの王朝の興亡を説明する。
 夏王朝は木徳だったので金徳の殷に代わられ、殷はさらに火徳を持つ周に敗れたという具合である。だから、周に代わるべきは水の徳でなければならないから、始皇帝はこの説を採用して、天の意思により水徳を持っておこった秦は、正統にして神聖な王朝であると主張した。
 ところが、前1世紀末頃の前漢時代になると、相勝説とは違って、木は火を生み、火は土を生み、土は金を、金は水を、水はさらに木を、それぞれ生むという説が出された。この説は相生説(そうせいせつ)と言われるが、この説も王朝の交代の根拠に利用された。漢が火徳とされていたところからみると、相勝説では自分の王朝を正統化しにくいので、改めて相生説をとなえたのであろう。
 さて、干支はこの相生説の順によるのである。十干の甲乙を一組にして木、丙丁を火、戊癸を土、庚辛を金、壬癸を水の五行に配し、その前のものを兄(え)とし、後のものは弟(と)として、甲はキノエ(木の兄)、乙はキノト(木の弟)、丙はヒノエ(火の兄)、丁はヒノト(火の弟)、戊はツチノエ(土の兄)、己はツチノト(土の弟)、庚はカノエ(金の兄)、辛はカノト(金の弟)、壬はミズノエ(水の兄)、癸はミズノト(水の弟)とするのである。そして、これと十二支を組み合わせて、たとえば丙午をヒノエウマと呼ぶのである。また、十干のことばの終わりはすべてエ・トであり、そこから干支をエトと呼ぶようになった。また、阪神タイガースの球場は、1924(大正13)年の甲子年(キノエネのとし)に造られ、十干十二支の最初の組み合わせにあたり、60年に一度の縁起の良い年だということから甲子園球場と名づけられたのである。
                参考文献 諸橋轍次 『十二支物語』 大修館書店 1968年
by YAMATAKE1949 | 2011-09-03 15:55 | 歴史のとびら