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第11回世界史講座のまとめ(隋唐帝国と東アジア諸民族の活動)

 第11回世界史講座は12月3日(土)午後2時より「隋唐帝国と東アジア諸民族の活動」をテーマにおこなわれました。受講者は4名でした。
 前回の魏晋南北朝時代の復習からはじまり、この時代に江南の開発が進んだことが後の隋の大運河の建設へと向かったこと。また、魏の時代に行われた均田制が隋唐に受け継がれ、日本の社会にも大きな影響を与えたこと。さらに、魏ではじまった九品官人法によって門閥貴族が生まれ、彼らは、南朝の六朝文化と呼ばれる貴族文化を担い、やがてこの文化が唐の貴族文化に受け継がれたことなど、魏晋南北朝が重要な時代であったことを確認した。
 北朝から全国を統一した隋の楊堅(文帝)が均田制や府兵制などを実施するとともに九品官人法をやめて、貴族の力をできるだけ抑えるために科挙制度を実施した。この制度は大変重要な意義を持っている。それは20世紀まで続いただけでなく、朝鮮・ベトナム・琉球王国でもおこなわれたものであった。この制度は、家柄ではなく、学科試験によって官僚を採用する制度であり、公平で現代に通じるものではあるが、重要な弊害もあった。それは、学科の内容が主に儒教の知識や詩などの教養を問うものであり、現実の社会に役立つ実用的なものではなかった。そのために科挙を採用した国々では、知識人のほとんどすべての人が、科挙に合格するために儒学や詩などの学習に時間を費やしていった。一方、科挙制度を採用しなかった日本では、「源氏物語」をはじめとする文学や後には蘭学などの新しい学問研究が進み、東アジアのなかで早く近代化を進めることができたのである。
 文帝の後を受けた煬帝は、大運河の建設を進め、政治の中心地である黄河流域と穀物の生産地として発達した江南とを運河によって結び付けたことは、現代でも大いに役立っているのである。しかし、このような巨大な土木事業と高句麗への遠征の失敗は、各地で農民反乱を勃発させ、兵士らの反乱のなかで隋は滅亡した。
 この混乱のなかで隋に代わって権力を握ったのが唐の李淵(高祖)であり、その後を継いだ太宗の時代には唐は大帝国を建設し、貞観の治とよばれるような安定した支配がおこなわれ、都の長安は百万人の人々が暮らす国際都市として繁栄した。文化では、李伯・杜甫などの詩や山水画・書道などは、日本の文化に大きな影響を与えた。
 一方、東アジ世界では、漢の時代から冊封体制が行われ、唐の時代にも受け継がれた。それは、中国皇帝が周辺諸民族の王を臣下としてそれぞれの国を治めさせ、朝貢貿易を認めた体制である。
  日本列島でも古くから各地域の王は中国の皇帝に朝貢した。中国の史料には、前1世紀には漢の支配する楽浪郡に使者を送っている。また、1世紀には後漢に朝貢し、王から「漢倭那国王」という金印を賜っている。また、3世紀には邪馬台国の卑弥呼が朝貢し、「親魏倭王」の称号を魏から賜っている。さらに5世紀には南朝の宋に倭の五王が朝貢したという史料が残されている。そして、7世紀には遣隋使や遣唐使が派遣され、律令制や仏教などの制度や文化を取り入れて日本の古代文化を発展させていったのである。
 朝鮮半島では唐と結んだ新羅が高句麗や百済を倒し、唐をしりぞけて朝鮮半島を統一したが、唐の文化を受け入れて律令制や仏教文化が発展した。
 8世紀半ばに入ると、均田制がゆきづまり、府兵制に代わって傭兵制が生まれ、辺境地帯では防備のために節度使が設置された。やがて、安史の乱と呼ばれる強大な節度使による反乱がおこった。反乱は軍人の力で鎮圧されたが、華北一帯は混乱し、節度使が支配する藩鎮と呼ばれる国が生まれ、唐は衰退していった。
 以上がまとめですが、参加者から「隋から唐への王朝の交代がなぜ簡単におこなわれるのか。」という質問が出された。「鮮卑族の血をひく隋の楊堅は北周の外戚として権力をふるい、やがて禅譲を受けて帝位についた。同じく鮮卑の血をひく李淵は楊堅と姻戚関係にあり、煬帝の死後に唐王朝を設立した。」と参考書にある。しかし、外戚や姻戚関係があるから王朝を受け継いだのではなく、中国では血のつながりよりも、天の命により天下を治めるのであるという思想が有力である。そのため実力のあるものは絶えず、天下を我が物にしたいという欲望を持っており、そのため王朝は絶えず交代していくのであると私は考えている。
 第12回世界史講座は1月14日(土)午後2時からです。テーマは「イスラーム世界の形成」です。今、最も注目を集めているイスラーム教がどのようにして形成されたのかを学習します。多数のご参加をお待ちしています。
by YAMATAKE1949 | 2011-12-04 12:14 | 世界史講座