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「大阪歴教協世界史部会2月フィールドワーク」に参加して②

 次に私たちが向かったのは「城南射撃場跡」です。志賀さんの資料によると、「かって、この場所に東西に細長くコンクリート製の体育館をつなぎ合わせたような建物がありました。第8連隊・第37連隊の兵士が小銃・機関銃の実弾射撃訓練を行う施設でした。戦後は陸上自衛隊の施設となっていましたが、1969年に大阪市に移管され、大阪城公園及びその駐車場となっています。」とある。この跡地はピ-スおおさかから西に歩いたところにあり、私はこのあたりを以前何回も歩いているのに、この場所に「城南射撃場跡」という石碑があることを全くしらなかった。
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城南射撃場跡の石碑
 私たちは「城南射撃場跡」をさらに西に進み教育塔を見学した。教育塔は、1934年の室戸台風で殉職した教員や死亡した多数の児童を弔うために造られたもので、以前、私たちは教育塔の前で行なわれた集会によく参加したものです。
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教育塔
 次に私たちは歩兵第8連隊碑・歩兵37連隊碑の見学へと向かった。
二つの石碑は、大坂城の南側に上町筋の通りをはさんでありました。志賀さんの資料によると「第8連隊は第4師団創設の前、1874年に作られた日本最初の歩兵連隊の1つ。最初は現在の国立病院機構大阪医療センターにありましたが、それを歩兵第37連隊に譲る形で、向かい側に移りました。第8連隊の場所は、難波宮のあった場所で、日赤病院を経て、史跡公園となっています。第37連隊は1896年に、それまでの7個師団体制から13個師団体制となる中で、新たに創設されました。軍隊内でのリンチを描いた、野間宏の『真空地帯』のモデルとされます。」とある。
 この石碑の前で志賀さんは、なぜ第8連隊の横に第37連隊とばらばらな番号が置かれたのかを資料も見ないでとうとうと説明してくれた。彼の博識には感心させられた。また、この資料にある『真空地帯』はまだ読んでいないのでぜひ読んでみたいと思った。
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歩兵第8連隊の石碑
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歩兵第8連隊の碑文
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歩兵第37連隊の記念碑
by YAMATAKE1949 | 2012-03-02 09:28 | その他