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王安石②

 <課題>
1.王安石が登場する当時の中国の対外関係を理解させる。
2.王安石の改革が国家財政の再建をめざしたものであったことを理解させる。
3.王安石の改革が大地主の反対にあって失敗したことをおさえる。
<資料と解説>
[1]
 王安石が登場するころの中国(北宋)はどのような状態だったのか
(資料1) 王安石関係年表
 916年 契丹(遼)建国
960年 五代最後の王朝が滅亡、宋建国
979年 宋、中国統一を完了
1004年 宋、遼に毎年銀十万両、絹二十万匹を贈ることを誓約し和睦する
1021年 王安石生まれる
1038年 西夏建国
1044年 宋、西夏に毎年七万二千両、絹十五万三千匹、茶三万斤を贈ることを誓約し和睦
1067年 神宗即位
1069~73年 王安石、新法を開始、均輸法、青苗法、倉法、保甲法、募役法、市易法、免行法、       保馬法を行なう
1076年 王安石失脚
1086年 王安石死去
(資料2 北宋と遼・西夏(東京書籍「新選 世界史B」より)
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(史料1 澶淵の盟)
 契丹皇帝は謹んで書を宋の皇帝のもとに提出します。我国と貴国とは、ともに軍事行動を停止することを議し、また通行を論じました。さらに恵みを承け特に誓書に示し、風土にめぐまれた貴国から、軍旅の費の補助として毎年絹20万疋・銀10万両を贈与していただくことになりました。(中略)沿辺の州軍は互いに境界を守り、両国の人民は互いに越境することがないようにします。(中略)この誓書に記してある以外のことは、互いに要求することをせず、国際的協調に努力し、この平和が永久に存続するように希求します。(吉田寅訳『契丹国志』巻20『契丹聖宗誓書』)
(解説)
 中国を統一した宋王朝が抱えていた最も大きな課題は、年表や地図を見れば明らかなように契丹族の遼やタングート族の西夏など外圧の問題である。かって五代後晋の建国に際して、援助をうけた返礼として遼に与えた燕雲十六州の地をめぐって、宋の太宗らが奪回をめざして出兵するが失敗に終わり、1004年に遼の侵入を受けたため澶州において和議を締結したが、これを澶淵の盟約と呼ぶ。史料1にあるようにこれによって宋は毎年絹20万疋・銀10満両を贈ることを約束し、その後も衝突の際にそれを増やして解決するようになる。また、西夏との7年間の戦争における敗北は、宋に多額の財政赤字をもたらした。しかし、その費用もさることながら両国に対する警備の兵が必要であり、その維持費は国家財政の8割をも占めるようになり財政を圧迫した。
 軍事費についで財政を圧迫したものに官僚の増加があげられる。宋は官僚に権力が集中するのを防ぐために、一つの職務に複数の官吏をおき、官庁の数もふやしたので、官僚の数がとめどもなく増加した。さらに外国から安く良質な塩が密輸されたために、塩の専売収入が減少したうえ、政府手形の乱発により通貨価値が下がりインフレを起こした。以上のことから財政赤字となり、そのしわ寄せは庶民とくに中小農民に負担がかかり、農民が佃戸(小作人)に没落するという現象をもたらした。
by YAMATAKE1949 | 2012-07-31 04:18 | 人物世界史