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スペイン・ポルトガル旅行記⑥

9 リスボン(人口約65万5000人)
「ポルトガルの首都リスボンは七つの丘にまたがるその姿をテージョ(スペイン語でタホ)に映す、中世の気品と現代のモダンさを併せ持った陽気な街だ。古来より地中海沿岸の民族が移り住んできたリスボンの港は、通商に便利な地形からも重宝がられ重要な役割を果たし続けてきた。町の礎が置かれたのはフェニキア時代の紀元前800年頃とされ、現在のリスボンの由来ともなったウリス・アボまたはオリシポと呼ばれていた。それから5世紀の後、ユリウス・シーザー率いるローマ軍に占領されたこの町は『幸福なるユリウス』と呼ばれるようになる。その後の5~6世紀はヴァンダル人を征服した西ゴート人がこの地を治めた。比較的平和だったこの時代も714年のアラブ人の襲来によって終わりを告げる。今も残るアルファマ地区の名前や迷路のような細道はアラブ人支配時代の無言の証人達だ。聖地奪還へ向った強大な十字軍を従えたアルフォンソ・エンリケによって、1147年リスボンはアラブのくびきを逃れ、キリスト教信者の手にゆだねられた。レオン王国の王アルフォンソ4世の孫であるエンリケがポルトガル初代の王の坐に就いたのは、それよりもわずか4年前のことである。」(『ポルトガルのすべて』より)
 エヴォラからいよいよ最終目的地であるリスボンのホテルには夕方に到着した。ホテルでしばらく休憩したあと、近所のスーパーへお土産のワインなどを買いに行った。夜の8時からバスで、「ファドディナーショー」に出掛けた。ファドとは「リスボンの下町で歌われる民衆歌。哀愁に富んだ短調または長調の旋律を歌う。通常、ギターラ・ポルトゥゲーザ(円形の共鳴胴をもつポルトガル・ギター)とビオラの伴奏で独唱される。」(百科事典より)最初に、ポルトガルの民族舞踊が披露され、そのあとファドの歌い手が一人ずつ出てきて合計4人歌った。哀愁のある歌もあったが、結構テンポのある曲もありとてもすばらしいものであった。私たちの横に座っていた団体はスペインのマヨルカ島から来たと言っていたが、年配の人たちが多く、一緒に楽しく歌っていた。
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ファドのディナーショー
 翌朝、リスボンの市内観光を行なった。まず、テージョ川に立っているベレムの塔を見学した。これはマヌエラ様式で建築されたもので、「関所として活躍したこの塔が建設されたのは1515年から1521年のことだ。スペイン支配下の時代には監獄として用いられた過去をもつ。保塁と一体化した4階建て6角形の塔の各角には円形の銃眼が設けられている。この防御施設も1983年に世界遺産に指定されている。」(『ポルトガルのすべて』より)
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べレムの塔
 ベレムの塔のそばにはテレビなどで見たことのある、エンリケ航海王子の500回忌を記念して建てられた「発見のモニュメント」があった。「このモニュメントはベレムの塔と同時期の1960年に公開された。大海に乗り出す船首を象った記念碑には、小さな帆船を手にしたエンリケ航海王を先頭に、航海時代に活躍した21人の偉人たちの像が彫られている。」(『ポルトガルのすべて』より)
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発見のモニュメント
「発見のモニュメント」を見学して後、ジェロニモス修道院を訪れた。
ジェロニモス修道院
 この修道院は街の西部に位置している。16世紀の初頭に建造されたこのマヌエラ時代の傑作とも呼ばれる修道院には、バスコ・ダ・ガマが持ち帰った財宝も保管されている。名前が示すとおり、マヌエラ1世の御世に生まれたこの建築様式は、ゴシックからルネッサンスの変遷期に磨かれたポルトガルの独特な様式だ。ポルトガル全盛期の大航海時代をテーマに持つのがこの様式の最大の特色だ。フランスの建築家ボイタクがその生涯をささげ、ポルトガルの建築家カスティーリョがその後を受け継いで建設された修道院は1983年にユネスコの世界遺産に指定された。(『ポルトガルのすべて』より)
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ジェロニモ修道院
 巨大な修道院を見学した後、われわれは天正遣欧使節団も招かれたところであり、世界遺産に指定されているシントラ王宮へと向かった。王宮見学のあとユーラシア大陸最西端のロカ岬を観光した。
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ロカ岬
ここで旅の記念に「ヨーロッパ大陸最西端到達証明書」を旅行社からプレゼントされた。この見学地がこの旅行の最期の見学地であり、その後リスボンのホテルに帰った。翌朝、5時にホテルを出発してリスボンの空港へ向かい、フランクフルトを経由して関西空港に到着したのは翌朝9時であった。
 この旅行は添乗員がよく歴史の勉強をしており、いろいろなことを私たちに教えてくれた。しかし、時々間違ったことを教えていた。たとえば「イスラム教を回教と呼ぶのは、イスラム教徒はメッカのカーバ神殿をくるくる回っているのでそう呼ばれているとか、世界三大宗教は、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教である。」などである。
(最後に)
この旅行で感じたことをまとめてみると
① 今回の旅行だけではないが、世界の文化遺産と呼ばれるものは、宗教関係のものが圧倒的に多い。今回もどこの都市へ行っても文化遺産の中心はカテドラル(もともとは椅子という意味で司教の座るところ=大聖堂)であった。勿論、スペイン・ポルトガルはレコンキスタによって成立したカトリックの国家であるということにもよるが、なぜこのようにヨーロッパでキリスト教が広がっていったのかということをもう一度考えてみた。結論から言うと文字も知らず文化的にも劣っていたゲルマン人たちが、キリスト教を受け入れることによって文字や文化を獲得していったということである。われわれ日本人が最初仏教を受け入れていったのと同じことである。今でも、バスの中から見たスペインの村の様子は、教会を中心にして家々が集まっているのである。そして、アジアで成立したキリスト教が、その地域の土俗的な信仰と結びつき広がっていったのである。なぜスペイン・ポルトガルにマリア信仰が根強いのか、それは、もともとこの地方には聖母信仰があり、それとキリスト教が結びついたためだといわれている。
② 次に感じたことは、スペイン・ポルトガルでは高年齢の人たちが、繁華街をゆったりと歩いたり、買い物を楽しんだりしている様子をよく見かけたことである。今でもシエスタ(お昼寝)が残っている、ゆったりと人生を楽しんでいるように感じられた。
③ 最後に、日本では、ズボンやバンド、シャボンなどポルトガル語がいまだに使われており、また、日本史でも種子島の鉄砲伝来など、ポルトガルについて少しでも知っていることがあるが、ポルトガルで日本のことについてどのくらい知っているのかを質問した。しかし、残念ながら日本のことについてはほとんど知らないということであった。エヴォラのガイドに、エヴォラを拠点として活動したフロイスのことについて尋ねたが全く知らなかった。フランシスコ・ザビエルが日本でキリスト教を布教したことなどもあまり知らなかったようである。ポルトガルの学校で教えている外国は、ポルトガルの植民地となった国、例えばブラジルや中国のマカオやインドのゴアなどである。ポルトガル人が日本のことで知っているのは「過労死」という言葉である。人生は楽しむためにあると考え、自分の権利を主張するポルトガル人にとっては「過労死」など考えられないことであろう。
 ここまで「スペイン・ポルトガル旅行記」を読んでいただいて、グラシャス(ありがとう)、それでは、アディオス(さようなら)。
by YAMATAKE1949 | 2012-08-01 06:07 | 旅行記