行基の足跡をたずねて④

 鈴の宮蜂田神社の次の目的地は野々宮神社であり、出発地点から8,6㎞ある。
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(花のこみち)
 野々宮神社に行く途中に、「花のこみち」があった。資料には、「四季のゾーンに分かれ、手入れの行き届いたガーデン」と書いてあり、道の両側にきれいな花が咲いていた。
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(野々宮神社)
 資料によると野々宮神社は、「祭神は素戔嗚命・火参霊命(ほむすびのみこと)・菅原道真公で紀元は不明。古くから火の神、農業の神として崇拝。明治初期まで併存していた香林寺(行基建立四十九院の1院)は廃仏毀釈により廃寺となった。」と書いてある。
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(野々宮神社の石碑)
 資料にある素戔嗚命(すさのおのみこと)とは、高天原で大暴れし、それを怒った天照大神が天岩戸にこもった。そのため根の国に追放され、出雲に下り、ここで八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した。大国主命はその子孫とされている。また、火参霊命(ほむすびのみこと)とは、イザナギとイザナミとの間に生まれた神である。火の神であったために、出産時にイザナミの陰部に火傷ができ、これがもとでイザナミは死んでしまう。その後、怒ったイザナギに十拳剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」で殺された。
 この神社と行基とは全く関係がなかったが、もと字中村にあった野々宮神社が永正年中(1504~1520年)に火災にあい、神社が安村香林寺の境内に移されたため関係が生まれた。しかし、明治の廃仏毀釈で香林寺は廃寺となる。
 次の目的地は水賀池公園で、出発地点から9,1㎞ある。
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(水賀池記念碑)
 資料によると、「行基の灌漑用水池の一つとして、和泉国深井郷薦池(こもえいけ)が挙げられるが、これが水賀池であろうと考えられている。」と書かれてある。
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(水賀池祈念碑建立の由来が書かれた石碑)
 この石碑は昭和55年に書かれた新しいもので、水賀池の歴史が刻まれている。この石碑によると、この
深井地区は和泉地方において、弥生時代に発展の基盤を持っていた。6~7世紀の律令国家の行政区画上、深井郷と称し、中世においては深井荘という大きな荘園であった。
 水賀池の築造時期は明らかではないが、堺市史によると行基の郷薦池であろうと考えられている。このことから7世紀後半から8世紀頃にかけ、その築造体験に基づいて、現在の規模の用水池が完成されたと考えられる。
 水賀池の外周が遊歩道で公園になっており、私たちはこの公園でお弁当を食べた。
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by YAMATAKE1949 | 2013-11-21 10:44 | その他 | Comments(0)