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中央ヨーロッパ旅行記⑳(オーストリア 市内散策)

 ハイリゲンクロイツを見学した後、私たちはバスでウィーン市内へと戻った。バスを降りると添乗員さんが出迎えてくれた。時刻は午後の4時半頃で、夕暮れのウィーン市内を徒歩で散策しましょうと添乗員さんが誘ってくれた。私たちは、ホーフブルク王宮の横の王宮庭園(ブルク公園)にあるモーツアルトの銅像を見学した。
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(モーツアルトの銅像)
 モーツアルトは、1756年1月27日にザルツブルクに生まれた。父親は宮廷楽団の団員で、モーツアルトに英才教育をおこなった。モーツアルトが6歳の時、シェーンブルン宮殿で演奏してマリア・テレジアを驚かせたという逸話が残っている。この時、同席していた7歳のマリー・アントワネットにモーツアルトが求婚したといわれているが、本当の話だとは思われない。
 ザルツブルクを嫌ったモーツアルトは、ザルツブルクの大司教と喧嘩して宮廷楽団のコンサートマスターを辞職し、ウィーンにやってきた。ここでモーツアルトは作曲や演奏会で大成功をおさめ、コンスタンツェと結婚した。しかし、妻のコンスタンツェも浪費家で、収入も多かったが支出も多く、蓄えはなかった。やがてモーツアルトの人気も衰えると、収入が減り借金をくり返すようになり、体調もくずすようになった。そして1791年12月5日、35歳の短い生涯を閉じた。葬儀はシュテファン大聖堂の礼拝堂で親族と友人のみで簡単に行われた。遺体は聖マルクス墓地に埋葬されたが、遺体がどの場所に葬られたかは確定されていない。
 モーツアルトの銅像を見学した後、私たちは夕闇迫る国会議事堂を外から見学した。
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(国会議事堂)
 この議事堂はオーストリア=ハンガリー帝国の帝国議会議事堂として、テオフィル・フォン・ハンセンが設計したものである。私たちが見学したブダペストの国会議事堂は、この議事堂に負けないように無制限に予算をつぎ込んだためにあのような世界一の立派なものが造られたのである。
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(国会議事堂正面)
 国会議事堂正面にはアテナ女神像が置かれており、女神像は左手に槍を、右の手のひらには勝利の女神の黄金像がのっているそうだ。
 国会議事堂の横にはライトアップされた市庁舎があった。
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(市庁舎)
 この市庁舎は、1872年から1883年にかけてドイツの建築家フリードリヒ・フォン・シュミットの設計を基にして建設されたものである。建設費ははおよそ1,400万グルデン(約1億2300万ユーロ)をかけて完成された。
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(市庁舎)
 遠くから市庁舎の夜景を撮影していると、庁舎の前で人が集まっている。何をしているのか近づいて眺めてみると、野外スケートをやっていた。
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(野外スケート)
 市庁舎の前で野外スケートができるとは、ウィーンはよほど寒いところなのだとなっとくした。市庁舎の横にはウィーン大学があった。
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(ウィーン大学)
 この大学は1365年に創立され、現在ではドイツ語圏で最古で最大の総合大学である。1348年に創立され、ヤン・フスで有名なプラハ・カレル大学に対抗して設立されたものである。


 
by YAMATAKE1949 | 2014-03-05 11:31 | 旅行記