中央ヨーロッパ旅行記29(チェコ クトナーホラ②)

 クトナーホラのクトナーとは修道僧が着る袈裟、ホラとは山、つまり「袈裟の山」を意味する。13世紀後半、それまで小さな鉱山の町であったが、この地で銀鉱が発見された。「ゴールドラッシュ」ではなく「シルバーラッシュ」がおこり、大勢の鉱夫がヨーロッパ各地から集まった。この銀鉱で働く鉱夫たちは仕事中、フードの付いた足まである長い服を着た。その姿がまるで修道僧の袈裟に似ていたので「袈裟の山」クトナーホラと呼ばれるようになったとガイドブックに書かれている。
a0226578_10453181.jpg
(聖バルボラ教会にある「作業服を着た鉱夫像」)
 しかし現地ガイドのアンジェラさんは違う話を聞かせてくれた。彼女によると、1260年頃、この辺りの修道院にアントニーという修道僧がいた。彼が修道院の仕事をさぼって山で昼寝をしていると、夢で神様があらわれ、お前が寝ていた場所を掘れというお告げがあった。その場所を掘ってみると銀がでてきた。彼は皆に知らせようと、目印として着ていた袈裟をぬいでその場所にかぶせた。だから「袈裟の山」クトナーホラと呼ばれるようになった。
 アンジェラさんの話は面白いが、ガイドブックの方が説得力がある。聖バルボラ教会の「作業服を着た鉱夫像」を見ると、確かに作業服は修道僧の袈裟によくにている。
 13世紀末には、この鉱山の銀の産出量はヨーロッパの3分の1を占めていたことがわかっている。14世紀にはボヘミア王ヴァーツラフ2世により王立造幣局が設立され、グロッシュ通貨の鋳造を担った。
a0226578_132177.jpg
(聖バルボラ教会「造幣礼拝堂のフレスコ画」)
中世ボヘミアで第2の都市となったクトナーホラには国王も滞在し、一時は宮廷都市となった。しかし16世紀になると銀が枯渇し始め、17世紀には三十年戦争によって教会や民家が破壊され、またペストによる人口減少などで、町はしだいに衰退していった。18世紀にはいると銀山が相次いで操業を停止し、1727年にはついに造幣局が閉鎖された。
 私たちは午前10時になってようやく聖バルボラ教会にはいることができた。
a0226578_133816100.jpg
(聖バルボラ教会)
 この教会の名前の由来は、鉱夫の守護聖人である聖バルボラからきている。
a0226578_13481651.jpg
(「聖バルボラ」聖バルボラ教会主祭壇)
 鉱夫たちの守護神である聖バルボラは、左上の本を開いている人物である。さて、この教会の建設は1388年に開始されたが、建設資金のほとんどが、カトリック教会ではなく市民たち自身によって調達された。最初に設計を手がけたのは、プラハの聖ビート大聖堂やカレル橋の設計で有名なペトル・パルレーシュの息子、ヤン・パルレーシュであった。フス戦争や資金不足などで中断され、結局完成したのは建設開始から500年余り経った1905年のことである。教会内には、前に紹介した17世紀頃の袈裟のような衣装を着てランタンを掲げた鉱夫の像、貨幣鋳造職人たちのフレスコ画がある。
a0226578_1481350.jpg
(教会内ネオ・ゴシック式の祭壇)
a0226578_1495117.jpg
(祭壇に描かれた「最後の晩餐」)
a0226578_14121455.jpg
(聖バルボラ教会のステンドグラス)
 ステンドグラスには、皇帝フランツ・ヨーゼフ2世のクトナーホラ訪問の様子が描かれている。
a0226578_14214313.jpg
(聖バルボラ教会のアーチ型天井)
a0226578_14264034.jpg
(聖バルボラ教会から見えるクトナーホラの町)
 聖ボルボラ教会を出てクトナーホラの町を歩いていると、珍しいマンホールを見つけた。
a0226578_14333079.jpg
(クトナーホラのマンホール)
 マンホールの絵はクトナーホラの町の紋章で、ボヘミアのライオンとハプスブルク家の鷲をあらわしている。
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2014-03-14 11:37 | 旅行記(海外) | Comments(0)