中央ヨーロッパ旅行記30(チェコ プラハ①)

 クトナーホラの町で最後に見たのはイタリア宮殿と呼ばれる建築物である。
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(イタリア宮殿)
 この建物は13世紀後半に、もともと要塞としてボヘミアとモラビアを結ぶ重要な交易路の近くに設立された。13世紀末には、銀鉱石の保管場所として、また採掘を監視する王国の役人の住居としても使用された。14世紀に入ると、ここに中央造幣局が設立される。それまでプラハその他に点在していた造幣所が、全てクトナーホラに集約された。様々に入り乱れて流通していた通貨を統一し、新しい硬貨を鋳造するためにフィレンツェよりイタリア人の専門家が招かれた。これがこの宮殿の名前の由来である。
 私たちは午前11時頃にはクトナーホラの町の見学を終えバスでプラハの町へと戻った。12時30頃にプラハのレストランでチェコ料理のローストポークを食べた。
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(プラハのレストラン)
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(レストランの看板)
 昼食後、私たちは徒歩でプラハ城へと向かった。
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(プラハ城)
 この城はフラチャニと呼ばれる城地区の丘に長く横たわっている。ここは城というより、もともと一つの町であった。城壁で囲まれた空間に教会があり、広場もあれば街並みもある。そして城の敷地内に大聖堂が置かれている。最初のプラハ城は9世紀に築かれた。13世紀頃にはほぼ現在の輪郭ができあがったが、西門の前は壕で防御されていた。18世紀半ばにマリア・テレジアが城を大改築した時に、壕が埋められて現在の広場ができた。
 プラハ城には門が3カ所あり、いずれの門にも2人ずつ衛兵が立っている。
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(プラハ城正門)
 西門の上には「戦う巨人たち」という彫像がある。これは18世紀後半にイグナーツ・プラツェルによって造られたものである。
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(プラハ城)
 衛兵の交代は毎正時に行われるが、正午のセレモニーは音楽隊のファンファーレをともなった大々的なものらしい。プラハ城の衛兵はチェコの若者たちに人気があり、毎年行われる選考会には全国各地から多くの若者が応募する。倍率は毎年10倍を超えるといわれている。
 私たちは第1の中庭からマーチャシュ門をくぐり、第2の中庭に入った。
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(マーチャシュ門)
 ここの駐車場でチェコの国産車であるシュコダを見つけた。
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(国産車 シュウコダ)
 第2の中庭から門をくぐって第3の中庭に入ると、目の前に聖ビート大聖堂が現れた。
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(聖ビート大聖堂)
 大聖堂の場所にはもともと、926年にヴァーツラフが建てた教会があった。そこにカレル1世が1344年、ゴシック様式の大聖堂の建設に着手した。しかし、フス戦争や資金難によって工事はなかなか進行せず、着工から600年近い年月を経て、1929年になってようやく完成した。塔の高さは82mと97mで、大聖堂の全長は124mで幅は60mもある大教会である。
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(聖ビート大聖堂)
 教会の中にはいると、まばゆいばかりのステンドグラスに目を奪われる。
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(ムハが描いたステンドグラス)
 19世紀末から20世紀初頭にかけて作られたステンドグラスの中には、アールヌーボー様式の画家たちの作品がある。特に人気のあるのは、チェコが誇るムハの絵「聖キリルと聖メトディウス」である。
 大聖堂の入口の上にはゴシック教会特有の美しい「バラ窓」がある。
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(バラ窓)
 
 
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by YAMATAKE1949 | 2014-03-15 11:02 | 旅行記 | Comments(0)