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中央ヨーロッパ旅行記34(チェコ プラハ⑤)

 私たちはカレル橋をマラー・ストラナ地区から旧市街に向かって歩いたが、旧市街側のたもとにはこの橋の建設を命じたカレル1世(神聖ローマ皇帝カール4世)の像が立っていた。
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(カレル1世像)
 彼の右手に持っているのはカレル大学の設立証書である。台座には神学、法学、医学、学芸を表すレリーフが彫られている。それらはカレル大学を代表する4つの学部である。カレル1世が発行した大学設立証書には「どこの国の出身者であろうと大学の学生であるなら国王の特別保護下にある」と書かれている。14世紀半ばにはチェコ全土から、そしてドイツ各地やポーランドから多くの学生がプラハに集まってきた。
 私たちは旧市街の狭い商店街を通って「旧市街広場」まで歩いた。
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(旧市街の狭い商店街)
 この広場に立つとひときわ目立つのが、2本の塔をもつティーン教会である。
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(ティーン教会)
 この教会の前身は、1135年に建てられた外国の商人のための宿泊施設に付属する教会であった。今のゴシック様式の建物に改築されたのは1365年であり、2本の塔の高さは80mある。ティーン教会の名前は、教会の裏側に税関(ティーン)があったのでその名が付いたらしい。正式名は「ティーンの前の聖母マリア教会」である。
 広場にある建物で一番人気のあるのが旧市庁舎で、広場を挟んでティーン教会と向かい合うようにして建っている。なぜ人気があるのかというと、定刻になると旧市庁舎の鐘が鳴って仕掛け時計が動く仕組みになっている。
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(旧市庁舎の時計塔)
 時計塔のある館は14世紀前半に建設された。その後も隣にあった建物の買い取りや増築によって、旧市庁舎の西側は次々に拡張していった。もともと別の館が連なってできているため、旧市庁舎の建物が一体どこまでなのかがわかりにくい。
 時計塔の前に2つの天文時計が取り付けられている。
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(天文時計)
 上の天文時計は、地球を中心にしてまわりを惑星がまわる「天動説」に基づいてつくられている。
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(上の天文時計)
 一方、下に取り付けられた天文時計は、旧市街の紋章を軸に12の星座がちらばる構成になっている。天文時計の見方は複雑でわかりにくい。
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(下の天文時計)
 仕掛け時計は9時から21時まで、毎正時ごとに仕掛け時計が動く。 
 この仕掛け時計は、以前「ドイツ旅行記」で紹介したハーメルンやその他の町の仕掛け時計に比べると、単純であまり面白くなかった。
 広場にはヤン・フスの銅像が立っていた。
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(ヤン・フスの像)
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(前日の写真が逆光だったので次の日にも撮ったヤン・フスの像)
 ヤン・フスは15世紀のウイクリフと並ぶ宗教改革の先駆者である。彼はカレル大学の学長でありプラハの説教師も務めていた。敬虔なキリスト教徒であったフスは、カトリック教会の腐敗や堕落をきびしく批判した。その結果、異端者とみなされて1415年に西南ドイツの町コンスタンツで火あぶりの刑に処せられてしまった。彼の死後、ボヘミア地方ではフスの信奉者たちが、フスは復活したとフス派を名のって立ち上がり、フス戦争へと発展した。私は世界史の授業で「フス戦争」は3つの戦いの意味を持っていると説明している。1つ目はカトリック教会に対する宗教的な戦い。2つ目はオーストリア・ハプスブルク家に対するボヘミアの民族的な戦い。3つ目は封建領主に対する農民の戦いという意味を持っていると。
by YAMATAKE1949 | 2014-03-20 10:09 | 旅行記