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第3回日本史講座のまとめ①(邪馬台国)

 第3回日本史講座は、8月23日(土)午後2時より、受講者8名で行われました。
前回の宿題として、「なぜ倭国の王たちは中国王朝に朝貢したのか。」という問題の答えを考えてくるということでした。皆さんの答えの中では、「中国の高い技術や文化を取り入れるため」という答えが多かった。また、「中国の侵略をまぬがれるため」という答えもあった。中には「生口というのは奴隷ではなく留学生であり、中国の文化を持ち帰るために派遣された」というユニークな答えもあった。「倭国の王は、中国王朝の権威を利用して、首長権を強化する目的で朝貢したと考えられる。」というのが私の答えであった。
5 邪馬台国
1) 中国王朝の興亡
 中国では、220年に後漢が滅び、魏・蜀・呉が対立する三国時代に入った。その中で最も勢力が強大であった華北の魏は、江南の呉や中国東北地方の高句麗と対立して、倭との外交を重視するようになった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
2) 『魏書』東夷伝倭人の条(『魏志』倭人伝)に見える倭
  『魏書』東夷伝倭人の条には、2世紀後半から3世紀半ばまでの倭についての記述が詳しく述べられている。それによると2世紀後半に倭国で大乱が起きたが、邪馬台国の卑弥呼を王とする、およそ30の小国の連合体が形成された。邪馬台国はどこにあったかという論争は江戸時代からあり、おもに九州説と畿内説に分かれている。九州説をとれば、3世紀半ばまではまだ西日本の統一は進んでおらず、畿内説をとれば、3世紀には西日本の統一が進んでいたと考えられる。この論争の原因は 『魏書』東夷伝倭人の条に書かれてある経路と方角の記事に問題がある。経路によれば畿内説、方角によれば九州説に有利となる。現在は、発掘されている遺跡や新たな研究から畿内説が正しいのではないかと私は考えている。そもそも客観的に考えて、「水行10日陸行1月」など詳しい経路が書かれているのであるから、経路を重視すべきである。方角については、後の中国の地図でも日本列島をもっと南に描いている地図がある。三国時代に魏が倭との外交を重視したのは、倭が呉の南に位置していると錯覚ていたからではないかと思われる。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
3) 邪馬台国
 都には城柵や物見やぐらがあり、宮殿では兵士に護衛された女王が神のお告げによる呪術的な政治を行い、弟がこれを補佐していた。この社会は、支配階級の王と大人、彼らに従属する下戸と奴隷とに分かれ、租税や刑罰の制度があり、市も開かれていた。卑弥呼は、魏の皇帝に使いを送り、239年には「親魏倭王」の称号と金印や銅鏡などを与えられた。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 
by YAMATAKE1949 | 2014-08-24 11:12 | 日本史講座