第8回日本史講座のまとめ②(土地政策の転換)

 Ⅱ 律令支配とあいつぐ政争
1 土地政策の転換
1) 農民の生活
 奈良時代には、鉄製農具の普及や農業技術が進歩して、水田が開かれ、口分田以外の宅地や畑地の私有もすすんだ。しかし、飢饉や自然災害がたびたびおこり、土木技術も未熟であったため、荒れてしまう口分田も少なくなかった。さらに、労働力の中心である成人男性の負担がとくにきびしかったため、口分田からの収穫だけでは生活は困難で、本籍地を離れて浮浪(ふろう)する者や、都から逃亡する衛士(えじ)や仕丁(しちょう)があとをたたなかった。また、僧侶は税を免除されていたので、朝廷の許可をえずに僧侶の姿をとる私度僧(しどそう)がめだつようになった。また、男性であっても税の負担の少ない女性として戸籍に登録する偽籍(ぎせき)が行われた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 政府の対策
 そのため、調・庸の滞納や品質の低下、軍団の弱体化などがおき、国家の財政や軍備にも影響をおよぼすようになった。朝廷は、715年、浮浪・逃亡した農民を本籍地にもどすことなく、その地で調や庸を出させるという現実的な措置をとり、717年には、郡の下にある里を郷(ごう)にあらため、あらたに郷の下に2~3の里をもうけて、行政区画を細かく分類し、農民から税を徴収するようにした。
 さらに朝廷は、口分田不足などで税収も安定しないこともあって、722年に百万町歩開墾計画(ひゃくまんちょうぶかいこんけいかく)を立て、翌年には開墾者に対し、墾田(こんでん)の所有を3世代本人・子・孫)にかぎって認めるという三世一身法(さんぜいっしんのほう)を出して、農民に開墾を奨励した。しかし、制限付きだったこともあって、あまり効果はあがらず、743年、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)を出し、許可をえて租を納めれば、一定面積にかぎって土地の私有を永久に認めるという政策をうちだした。
3) 初期荘園
 墾田永年私財法をきっかけにして、貴族や大寺院・地方豪族らは各地で大規模な墾田の開発に乗り出したがこれを初期荘園と呼ぶ。とくに東大寺は、国司や郡司の支援のもとに、北陸で開発を行った。墾田の耕作には専属の耕作者はおらず、浮浪人も使われたが、周辺の農民への貸し出しが中心であったため、経営は安定せず、9世紀以降、その多くが衰退した。

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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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by YAMATAKE1949 | 2014-11-10 09:56 | 日本史講座 | Comments(0)