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第9回日本史講座のまとめ②(平安遷都と蝦夷との対立)

2 奈良時代の人々と信仰
1) 神仏習合
 この頃の人々は、呪術的な信仰をうけつぎ、自然の石や樹木に神霊(しんれい)を認めて神聖視した。また、土俗的な信仰はいぜん根強く、祖先の霊や土地の霊などへの礼拝もさかんになった。鎮守社(ちんじゅしゃ)などの神社の境内に神宮司(じんぐうじ)がもうけられるなど、土俗的な信仰と仏教とがまじりあう神仏習合が広まった。
2) 結婚
 葬儀は仏教の影響から火葬も一部では行われたが、土葬が一般的だった。また、結婚は男が女の家にかよう妻問い婚(つまどいこん)が多く、婿入り婚(むこいりこん)や嫁入婚(よめいりこん)なども行われた。
  第5章 貴族政治と平安文化
 Ⅰ 平安京と律令体制の動揺
1 平安遷都と蝦夷との対立
1) 平安遷都
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 奈良時代末期の政争のなかで即位した天智天皇系の光仁(こうにん)天皇は、仏教勢力を政治から排除して律令国家を立て直そうとしたがなかなかすすまなかった。ついで即位した桓武(かんむ)天皇は、寺院などの旧勢力の強い奈良から都を移して、政治の再建をはかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 784年、桓武天皇は、秦氏など渡来系の氏族の協力をえて、琵琶湖と難波津とをむすび水陸交通に便利な淀川沿いの山背(やましろ)国の長岡京へ遷都をはかった。しかし、洪水や造宮使(ぞうぐうし)の暗殺などがおきて社会不安が広がり、造都は中止された。そして794年、和気清麻呂(わけのきよまろ)の進言で、同じ山背国葛野(かどの)郡の地に遷都した。その後、新都は「平安楽土」の地として平安京と名づけられ、人口10万人をこえる大都市となった。平安京遷都から鎌倉幕府の成立までの時代を平安時代とよんでいる。この遷都をきっかけに山背は国名を山城と改めた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
by YAMATAKE1949 | 2014-11-24 10:04 | 日本史講座