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第25回日本史講座まとめ③(幕府政治の展開)

6 幕府政治の展開
1) 3大将軍足利義満
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)

 3大将軍となった義満は幕府を安定させるために二つの方法により専制的な政治を行った。その一つは有力守護を武力によって抑えることである。1390年には、美濃・尾張・伊勢三国の守護土岐康行(ときやすゆき)を徴発してこれを討伐し(土岐氏の乱)、翌年には山名氏清(うじきよ)を徴発して倒し(明徳の乱)、1399年には大内義弘を刺激して、これを堺に攻め滅ぼした(応永の乱)。
 第二の方法は、天皇権威の利用である。義満は1394年、将軍職を子の義持に譲ると太政大臣に任ぜられ、1407年には自分の妻を皇后などに準ずる准母(じゅんぼ)とし、翌年には北山第(てい)に後小松天皇をむかえ、ついで自分の子の義嗣(よしつぐ)を親王の儀式によって元服させた。さらに彼は、上皇の尊号まで朝廷に要求したほどで、こうして皇室に接近することによって、自己の支配を権威づけようとしたのである。
2) 4大将軍足利義持
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(ウィキペディアより)
 4代将軍足利義持は、父の義満とは逆に、有力守護大名との合議によって政治をすすめ、幕府政治を安定させた。しかし、1416年、鎌倉公方足利持氏(もちうじ)に不平をもった関東管領上杉氏憲(うじのり)が鎌倉で反乱するという(上杉禅秀の乱)が起こり、鎌倉府との関係が問題になってきた。
3) 6大将軍足利義教(よしのり)
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(ウィキペディアより)
 5大将軍義量(よしかず)は、17歳で将軍となったが、在職3年で病死した。6代将軍となったのは天台座主(ざす)から還俗(げんぞく)した義教であった。義量の死後、実権を握っていたのは父の義持であったが、彼が危篤に陥っても後継者の指名を拒否したため、有力な群臣たちにより、義持の弟4名の中からくじ引きで決定された。そのため義持はくじ引き将軍と呼ばれた。くじで決定された将軍に対して鎌倉公方持氏は公然と反抗し、義教はまた将軍権力の強化をねらって専制政治を強行した。こうしてまず1438年、持氏の反乱、永享(えいきょう)の乱がおこった。義教は関東管領上杉憲実(のりざね)と協力の上、大軍を送って1439年、持氏を滅ぼした。そして、1440年には、下総(しもうさ)の結城氏朝(ゆうきうじとも)が上杉憲実に反抗し、持氏の遺子を奉じて幕府に対し反乱を起こした。この結城合戦で関東の豪族たちは二派に分裂して混乱状態となり、幕府や鎌倉府の支配力は衰えていった。
 義教のこのような専制政治は守護大名たちの反発を誘い、1441年、播磨・備前・美作(みまさか)の守護をかねていた赤松満祐(みつすけ)が、義教を自邸に招いて謀殺するという嘉吉(かきつ)の乱がおこった。幕府は、山名持豊(もちとよ)を派遣して、播磨にもどった赤松満祐を討伐し、かろうじて事をおさめたが、幕府権力の衰退は誰の目にも明らかとなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
by YAMATAKE1949 | 2015-09-16 10:11 | 日本史講座