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第28回日本史講座まとめ③ (戦国時代)

第10章 中世から近世へ
 Ⅰ 戦国の動乱
1 戦国時代
1)下克上
 応仁の乱後、約100年の間を戦国時代と呼んでいる。この時代は中央の幕府の権力が全く衰え、守護大名にかわり戦国大名が登場し、領国の拡大からさらに全国制覇をめざして激しい戦いをくりひろげた時代である。
 各地で下克上の風潮が強まり、国人・地侍らの地方武士や農民は、所領や権益を守るために一揆を結び、守護大名の支配に強力に抵抗し、商人や職人らは自治の力を育て自治都市を生み出した。守護代や国人のなかには守護大名にかわって実力で支配しようとする者もあらわれた。
2) 室町幕府の解体
 室町幕府の支配は畿内近国の一部にしかおよばなくなり、守護大名の多くも没落していった。将軍も管領の細川氏の動向によって人選されるようになった。しかし、その細川氏も一族や家臣の対立などから没落し、家臣の三好長慶(みよしながよし)、さらにその家臣の松永久秀(まつながひさひで)が台頭するなど、畿内の政情は不安定であった。関東では、結城合戦(ゆうきがっせん)後も鎌倉公方と関東管領の上杉氏とがそれぞれ対立して国人をまきこんで争った。
2 国一揆と一向一揆
1) 国一揆
 畿内近国でも幕府の支配は弱まり、力を強めた国人らは守護大名に対抗して国一揆を結んだ。山城では守護大名畠山氏が一族を二分して争い、長い間、戦場となった。1485年、南山城地方の国人や農民は両軍に撤退を求め、これに成功すると国人らは合議によって支配方針を定め、交代で政治の運営にあたった。このような自治的支配が8年にもわたりつづいたが、1493年、細川氏らに攻められて解体したが、これを山城の国一揆と呼ぶ。
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(三省堂「日本史B」より)
2) 一向一揆
 一向宗(浄土真宗)は、惣村には道場を、山城の山科(やましな)や摂津の石山(大坂)など交通の要地には寺を中心とした寺内町をつくり、本願寺のもとで信者(門徒)の拡大につとめた。彼らは一向一揆を結んで、北陸・畿内・東海で守護大名や戦国大名に対抗した。加賀では1488年に門徒の国人や農民らが中心となって守護大名の富樫政親(とがしまさちか)を攻め滅ばした。これ以後、加賀は、一向一揆が約100年にわたって合議による自治的な支配を行ったため、「百姓の持ちたる国」といわれたが、これを加賀の一向一揆と呼ぶ。
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(東京書籍「日本史図説」より)
3 自治都市と法華一揆
1) 自治都市
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(東京書籍「日本史図説」より)
 幕府のお膝元の京都では、町衆が自治組織をつくり、月行事(がつぎょうじ)と呼ばれる代表者を選んで町政を運営した。日明貿易で栄えた博多や堺でも、それぞれ12人の年行司(ねんぎょうじ)や36人の会合衆(えごうしゅう)と呼ばれる富裕な商人が合議によって町政を運営した。なかでも、京都の町衆は応仁の乱で荒廃した市街地の復興をすすめて、1500年に祇園祭を復活させた。
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(東京書籍「日本史図説」より)
2) 法華一揆
 日蓮宗(法華宗)の信者が多かった町衆は、1532年に畿内で一向一揆が起きると、町を守るために法華一揆を結び、細川氏らの軍勢とともに一向宗の山科本願寺を焼き払った。しかし、1536年、日蓮宗の広がりを恐れた延暦寺の僧兵らに攻められ、法華一揆は敗れ勢いは衰えたが、これを天文法華一揆と呼ぶ。
by YAMATAKE1949 | 2015-12-12 10:54 | 日本史講座