第32回日本史講座まとめ② (江戸幕府の成立)
Ⅰ 江戸幕府の成立
1 江戸幕府の成立
1) 豊臣政権の分裂
豊臣秀吉の死後、五大老や五奉行らの対立が深まった。政権の運営は、秀吉の跡を継いだ豊臣秀頼が幼かったため、五大老の筆頭である徳川家康が後見役として行っていた。
家康は三河の一土豪から身を起こし、織田氏と同盟して東海一帯に勢力を伸ばした。秀吉が台頭すると、秀吉の命令で東海の地を離れ、江戸の地に移り、関東6ヵ国240万石の大大名となり、朝鮮に出兵せずに勢力をたくわえていた。
2) 関ヶ原の戦い
五奉行の石田三成は家康の影響力が強まるのを恐れ、五大老の毛利輝元らとはかり、1600年に家康討伐の兵をあげた。家康も福島正則や加藤清正ら豊臣系の大名を見方にして応じ、三成方(西軍)と家康方(東軍)の両者は美濃の関ヶ原で激突した。西軍は8万5000、東軍は10万4000で天下分け目の戦いを展開したが、戦闘は西軍の小早川秀秋の裏切りにより東軍の大勝に終わった。
3) 幕府の開設
家康は西軍の大名を処分し、1601年に京都所司代を設けて、西国や朝廷の動向を監視させた。1603年、家康は征夷大将軍となり、江戸幕府を開いた。しかし、関ヶ原の戦いでは豊臣系の大名の協力がなければ勝てなかったし、大坂には秀頼がおり、幕府の基盤は安定していなかった。そこで家康は、1605年にわずか2年で将軍職を子の秀忠に譲り、徳川家が将軍職を代々受け継ぐことを示した。みずからは大御所(おおごしょ)として駿府で幕府政治を主導した。
4)大坂の陣
一方、大坂城には豊臣秀頼がおり、摂津・河内・和泉3国、わずか65万石あまりの大名に成り下がったとはいえ、要害堅固な大坂城にあって、秀吉の残した巨万の財を有し、秀吉恩顧の大名・牢人群の軍事力を秘めていた。家康にとって豊臣氏の存在は全国支配の最後の障害であった。家康は、ついに1614年、方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)事件をきっかけに、10月に大坂冬の陣の戦いを引き起こした。巧妙な家康は、同年12月、いったん和議を結んだが、その条件を無視して大坂城の堀を埋めて無防備とし、1615年4月、再び戦いを起こした。この大坂夏の陣によって5月に大阪城が陥落し、豊臣氏は滅んだ。
5) 大名統制
家康は幕府の基盤を固めるために、旗本・御家人と呼ばれる家臣団を組織しながら、関ヶ原の戦いや大坂の陣で敵方だった大名の取りつぶし(改易)や領地の削減(減封)(げんぽう)・所替え(転封)(てんぽう)を行った。家康はまた、没収した領地を東軍に加わった大名への恩賞としたほか、軍事・交通上の要地に徳川氏一門や有力家臣を親藩大名や譜代大名として配置し、関ヶ原の戦い前後から徳川氏に従うようになった大名を外様大名として遠隔地に振り当てるなど、大名を配置し直した。