第35回日本史講座まとめ③ (文治政治の確立)

2 文治政治の確立
1) 背景
 幕藩体制は3代将軍家光のときに確立したが、それまでの大名の取りつぶし、牢人の取り締まりなどの武断的な政策は、大量の牢人が発生して、社会に不穏な空気がみなぎりはじめていた。また、合戦の手柄による出世ができなくなった旗本や御家人のなかにも、幕政に不満を持ち、かぶき者と呼ばれる者もいた。彼等は異様な姿で群れをつくっておし歩き、旗本・御家人のかぶき者は旗本奴(やっこ)・六方(ろっぽう)とも呼ばれた。また、旗本奴に対抗した市井(しせい)のかぶき者を町奴・男伊達(おとこだて)と呼び、頭領の幡随院長兵衛(ばんずいいんちょうべえ)は、のちに芝居の主役にもなった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 契機
 1651(慶安4)年、家光が亡くなると、跡継ぎの将軍家綱はまだ11歳という幼年で、この機を捉えて牢人で兵学者の由井正雪(ゆいしょうせつ)は丸橋忠弥とはかって、幕府転覆の挙兵を計画したが失敗した。これを慶安の変という。しかし、1652(承応1)年には、再び牢人による老中襲撃を企てた承応(じょうおう)の変がおこり、さらに1657(明暦3)年には江戸の6割近くを焼いた明暦の大火がおこり、幕府の権力はゆさぶられた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 政策の転換
 このような情勢に直面した幕府は、これまでの武断主義から文治主義へ政策の転換をおこなって危機のきりねけをはかった。慶安の変直後、幕府は牢人取り締まりをゆるめて牢人の救済にのりだした。また、大名・旗本の末期養子の禁制をゆるめて、大名の取りつぶしを減らすとともに、幕府に人質を出す証人の制を廃止した。また、主君が亡くなると、家臣が跡を追って切腹する殉死を禁止し、家臣は主君個人に仕えるのではなく、主君の家で組織することを義務づけた。さらに幕府は、主君と家来の関係や社会の秩序などを重んじる朱子学を取り入れて、制度や法令を整備していった。
4) 諸藩
 一方、諸藩では、藩主が有能な家臣を登用して領内の開発や民政に力を入れ、権力の強化と藩政の安定をはかる動きがおこった。なかでも、備前岡山藩の家田光政や加賀金沢藩の前田綱紀(つなのり)らは、儒学者を顧問にして、藩政の仕組みや支配の考え方を打ち立てた。
 
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by YAMATAKE1949 | 2016-03-01 10:57 | 日本史講座 | Comments(0)