第36回日本史講座まとめ① (将軍綱吉の政治)

 第36回日本史講座は3月12日(土)午後2時より、受講者11名で行われました。
 第12章 幕藩体制と上方文化
 Ⅰ 綱吉の政治と白石の政治
1 将軍綱吉の政治
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(山川出版「日本史研究」より)
1) 5代将軍綱吉
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 4代将軍家綱の死後、家綱に子がなかったため、その弟で上州館林(たてばやし)の藩主であった徳川綱吉が跡を継ぐに及んで、文治政治が一層強力に推し進められた。綱吉は、将軍権威の確立をめざして、大老酒井忠清(ただきよ)をはじめ前代からの権力者を幕府の閣僚から追放し、側用人柳沢吉保(よしやす)を登用し、また、親藩・譜代大名の改易や減封を盛んに行う反面、外様大名の優遇をはかったりした。
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(山川出版「日本史研究」より)
2) 儒学の興隆
 1683年には武家諸法度の第1条「文武弓馬の道、専(もっぱ)ら相(あい)嗜(たしな)むべき事」を「文武忠孝(ちゅうこう)をはげまし、礼儀を正すべき事」に改め、儒教の教えを取り入れて統治することを大名らに求めた。1690年には、林羅山(はやしらざん)の孫林信篤(のぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に任じて朱子学を幕府の学問(正学)とし、林家の邸内にあった私塾を湯島に移し、湯島聖堂を開いた。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 秩序・儀礼の整備
また、応仁の乱で中断していた大嘗祭(だいじょうさい)を復興させるなど朝廷との協調につとめるとともに、儒教の教えを農民や町民にまで広めた。さらに1685年以来しばしば発令された生類憐(しょうるいあわ)れみの令を出して動物の殺生(せっしょう)を禁止してきびしく取り締まった。笠原一男著『日本史研究』によると「1685年の令は馬を乱暴に扱わぬ事、鳥や貝類を江戸城で食用に供さぬ事ぐらいのものであったが、87年になると生類一般に広まり、ヒステリックな愛護令がぞくぞくと出された。とにかく、犬を殺したために流罪や死刑になった者も多く、蚊をうち殺したためにお役御免になる武士もでたというから、全く正気の沙汰ではない。人々は犬を飼うのを恐れ、捨て犬が江戸市中を横行するようになると、幕府は四谷・大久保・中野に大きな犬小屋を建て、4万8700匹の犬を収容し、1日1匹に白米3合、味噌50匁(もんめ)、干鰯(ほしか)1合ずつを与えた。この莫大な費用は関八州の農民・江戸市民から徴収されたので、人々の怨嗟(えんさ)の声は一層高まった。」と書かれている。
4) 財政再建
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 明暦の大火で焼失した江戸の復興費用などで乏しくなっていた幕府の財政は護国寺などの寺社造営で赤字となった。しかも金銀の産出量が激減していたので、幕府は、勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)荻原重秀(おぎわらしげひで)の意見を取り入れ、貨幣を改悪することに踏み切った。幕府は500万両の利益を得て一時の急をしのぐことができた。しかし、その結果、貨幣価値の下落により物価が急騰し、人々の生活は苦しさを増した。
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(山川出版「日本史研究」より)
 しかも、元禄末年から宝永年間にかけて、地震・噴火・大火などの天災があいつぎ、社会不安はつのる一方であった。1702(元禄15)年に起こった赤穂浪士の仇討ちは、このような幕府政治や社会に対する不満を持っていた民衆に大いなる支持を得たのである。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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by YAMATAKE1949 | 2016-03-13 10:15 | 日本史講座 | Comments(0)