ベネルクス3国旅行記32 (アムステルダム観光②)

 レンブラントについてここで購入したガイドブックでは次のように書かれている。「1606年、レンブラントはライデンの製粉業者の9番目の子供として生を受けた。ラテン語学校に通い始めたが、14歳にして画家ヤーコブ・ファン・スヴァーネンブルフの工房に弟子入りしたため、ラテン語学校は卒業しなかったと考えられている。1624年または1625年に、絵画技法を完成させるため、アムステルダムの歴史画家ピーテル・ラストマンの元で6ヶ月間学んだ。ライデンに戻ったレンブラントは、ヤン・リーフェンスと共同で工房を持った。野心的な若い画家達は、互いに切磋琢磨し合い、腕を磨いていった。1631年、レンブラントはアムステルダムに居を移した。画商のヘンドリック・アイレンブルフを通して、多くの肖像画の依頼を受けた。また、多くの歴史画も手掛け、エッチングや製図も数多く制作した。レンブラントは大規模な工房を構えるようになり、数十名にものぼる弟子を取った。・・・レンブラントは非常に著名になり、多額の金を稼いだが、借金で首が回らなくなり、1656年ついに破産した。レンブラントは、その後も晩年まで絵を描き続け、1669年に死亡した。」
a0226578_943585.jpg
(使徒パウロに扮した自画像)
 「レンブラントは自信の肖像画として東洋人、兵士、放蕩息子、古代の画家ゼウクシスに扮している。その他にも、豪華で贅を極めた様々な装いの肖像画を描いた。この自画像では、使徒パウロがその特徴である巻物と短剣(ベストから柄が出ているのが見える)を持つ姿を、自身に似せて描いている。使徒パウロはキリスト教の伝道者であった。ヘブライ語のような文字が書かれた羊皮紙は、彼が神を『精霊の剣』と例えた、エフェソの使徒への手紙であることをほのめかしていると思われる。頭に巻いたターバンの両側から、レンブラントの白くなった巻き毛が飛び出している。額には長い皺が刻まれ、親しげな視線にも関わらず、つり上げられた眉毛が、いぶかしげな印象を加えている。」
a0226578_9331299.jpg
(カプチン修道士の姿をしたティトゥス)
 「本作品は、レンブラントの息子ティトゥスを描いたものである。フランシスコ修道会の修道衣に身を包んだ男が、視線を落とし、深く考え込んでいる。アッシジの聖フランチェスコを描いた可能性もある。フランシスコ修道会の規則に従い、修道僧たちは貧しく慎ましやかな生活を送っていた。若い男の粗末な身なりや、遠くに視線を馳せるような表情から、このような規律正しい生活が見て取れる。これこそが、本作品の本当の狙いである。男の背景は、ぼんやりとしか描かれていない。1668年、ティトゥスは、娘ティティアの誕生を待たずして27歳の若さでこの世を去った。」
a0226578_944037.jpg
(織物商組合の幹部たち)
 「毎年、アムステルダムの織物商組合では見本検査官として5名の男からなる委員会を任命し、織物の品質の検査を委ねていた。1662年の委員会がレンブラントに依頼したこの肖像画は、後に世界で最も有名な集団肖像画の1つとなった。特に注目すべきは、男達が鑑賞者の方に向き直っているように見える構図である。軽蔑から歓迎の笑みに至るまで、様々な表情が並んでいる。テーブルを囲むという構図により、部屋に誰かが入ってきて、会議が中断したかのような印象を与えることに成功している。レンブラントは、鑑賞者の目線がテーブルの側面と等しくなるように描くことで、空間的な効果を高めている。この集団肖像画は、スタールストラート(スタール通り)にある織物組合の役員室に、先に飾られていた5つの集団肖像画と並んで飾られた。以前からあった肖像画では、いずれも幹部がどっしりと着座している。作品の構図が他の肖像画と合うように、レンブラントが何度もポーズを書き直したことが、X線写真により明らかになっている。」
a0226578_9592587.jpg
(『オラニエ公ウィレム1世の肖像』 アドリアーン・ケイ画)
 「オラニエ公ウィレム1世は、スペイン支配に対抗する動きの中で最も重要なリーダーであった。この肖像画は、アントワープで制作されたと考えられている。ここで、オラニエ公ウィレムは軍人としてではなく、むしろ市民であることを強調して描かれている。口髭の先を細く整え軽くカールさせ、ひだ襟で飾られた幅広の毛皮の襟付きの豪華な刺繍陣羽織(ロングコート)で盛装したこの『国家の父』は、簡素な縁なし帽を被っている。」
 国立美術館には、古い大砲が展示されている。
a0226578_1085474.jpg
(古い大砲)
 次にフェルメールの作品を鑑賞した。フェルメールについてガイドブックは次のように書いている。
 「ヨハネス・フェルメールは、17世紀を代表する画家の1人と考えられているが、彼の生涯についてはほとんど知られていない。1632年にデルフトで生まれ、無名の師について絵画を勉強したフェルメールは、21歳のときにカタリーナ・ボルネスと結婚し、妻の信仰していたカトリックに改宗した。1660年代の資料には、聖ルカ組合の理事および市警隊のメンバーとして、フェルメールの名が記載されている。1675年に死去した際には、11人の子供がいた。絵画市場の価格が急落したことから、フェルメールは金銭的に困窮した晩年を過ごした。18~19世紀には、彼の作品はほとんど忘れ去られていたが、19世紀末に作品が再評価され始めてからは、フェルメールは数多くのファンの心をつかんだ。平凡な情景から全く新しい世界を作り出し、各場面の固有性を通じて感情を表現する等、卓越した能力を持つ芸術家として尊敬されている。圧倒的な静けさに満ちた彼の作品は、高度な遠近法の技術を用いており、『引き立て役』(手前に置かれたテーブル、椅子、カーテン等)により、鑑賞者は文字通り絵の世界に迷い込んだような感覚を感じる。」
a0226578_10283145.jpg
(牛乳を注ぐ女)
 「袖をまくった若い女が、土製のポットに牛乳を注ぐ作業に全神経を集中させている。視線を下ろすと、女は左手で重いポットをしっかりと支え、注ぎ口から牛乳がしたたり落ちるように傾けている。フェルメールは、飾り気のない質素な部屋で、光の効果を巧みに操っている。窓の鉛枠ガラスが1部欠けており、洗練された光の演出や、台所のむき出しの壁が不均一な様子に鑑賞者の目が行くように仕組まれている。牛乳を注ぐ女の頭の上には、飛び出した釘が壁に短い影を作り、その少し右側では、別の釘がでてきた壁の穴が見える。このような些細に思えるディテールを描くことにより、光に実際に触れることができそうな存在感を与えている。」
a0226578_10394596.jpg
(手紙を読む青衣の女)
 「髪の毛をひっつめにした女が、両手に持った手紙を読んでいる。視線を紙に固定し、まるで手紙を声に出して読んでいるかのように、唇がうっすら開かれている。手紙を読む女のモチーフは、オランダ黄金時代に多く描かれている。ディテールの一部から、手紙が恋文であることを示唆している。ここで描かれている女の表情からは、このような単純な解釈が正しいかどうかは伺えないが、鑑賞者は、彼女の様子から、いくつかの手がかりを得ることができる。彼女は青いナイトコートを着たままである。女が向き合っているテーブルの上に小さな箱があり、蓋が開かれている。手紙の前のページと思われる紙の下には、隠された真珠も見える。手紙を受け取ったとき、彼女が寝室にいたことが想像できる。
a0226578_1050225.jpg
(恋文)
 「開かれた戸口から、女がリュートの演奏を止め、女中から手紙を受け取る姿を見ることができる。女の頭には当惑と不安げな表情が浮かんでいるのと対照的に、メイドは自信に溢れたポーズで片手を腰に当て、女主人が手紙を開くのを待っている。作品のほぼ3分の2が影の中にあるという珍しい構図のため、鑑賞者の目には、ほとんどこの2人しか入らない。カーテンが戸口にたくし上げられているため、見てはいけないものを見ているような印象を受ける。床のタイルのパターンや戸口にかけられた箒、手前のスリッパ等、すべてが絵に奥行きを与えている。フェルメールは、白テンの毛皮で縁取られた女の黄色い上着を、他の作品でも使用している。
[PR]
by YAMATAKE1949 | 2016-06-01 10:59 | 旅行記(海外) | Comments(0)