人気ブログランキング | 話題のタグを見る

第38回日本史講座のまとめ② (近世の農民・近世の町人)

 Ⅲ 近世に生きる人々
1 近世の農民
1) 村落制度
 農民の生活は、すべて村を単位としていとなまれた。村は50~60戸からなり、本百姓のほか、本百姓の小作や従属する零細な農民がいた。本百姓も、広い田畑を持つ有力農民から、わずかばかりの土地を耕しながら稼ぎ仕事で生計をおぎなう者までさまざまであった。
 初期には本百姓は少なかったが、新田に入植して本百姓となる者や分家する二男・三男などもあって、本百姓の数は増えていった。17世紀後半には、農家は子供と両親・祖父母の数人からなる小家族中心になり、有力農民や水呑百姓・従属農民は少数という村が多くなった。
第38回日本史講座のまとめ② (近世の農民・近世の町人)_a0226578_10321358.jpg
(東京書籍「図説日本史」より)
2) 共同作業
 年貢の納入は村の責任とされた村請制度のため、農民は肥料・燃料・用材・秣(まぐさ)などをとる山野や用水路を入会地(いりあいち)として共同で管理・利用し、村落の維持につとめた。また、田の荒おこしや田植え・稲刈りなどの農繁期や、短期間に集中した作業が必要な家屋の建築・屋根の葺き替え・井戸替えなどには無償で協力しあう結(ゆい)・もやいとよばれる共同作業が行われた。
3) 自治
 こうした協力関係を守るために、村では独自の村掟(むらおきて)や村法(そんぽう)が作られ、違反者には村八分(むらはちぶ)などという制裁が加えられ、いっさいの交際を絶たれた。八分の意味は、はっきりしない。村民のおもな交際に冠・婚・葬・建築・火事・病気・水害・旅行・出産・年忌の10があり、このうち、火事と葬式とはやむをいないからつきあうが、あとの8は交際を絶つという説もあるが、「はじく」「はぶく」から「村はじき」「村ばね」などとよんだと考えるのがよいかもしれない。(山川出版「日本史研究」より)
2 近世の町人
第38回日本史講座のまとめ② (近世の農民・近世の町人)_a0226578_1037111.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
1) 都市の住人
 町には、地主・家持(いえもち)という一人前の町人と、地借(じがり)・店借(たながり)といういわば農村の水呑百姓にあたる階層があり、町人は五人組を結成して町政に参加できるが、地借・店借にそれが認められていなかった。彼らはおもに商工業に従事したが、これに対する取り締まりは、農民に比べればかなり緩やかで、租税にしても、土地・屋敷にかけられる地子(じし)銭や商工業の営業税としての冥加(みょうが)・運上(うんじょう)ぐらいのものだけであったから、かなりの富をたくわえることができた。
第38回日本史講座のまとめ② (近世の農民・近世の町人)_a0226578_10383473.jpg
(東京書籍「図説日本史」より)

2) 職人
 職人の家には、親方になるために、親方のもとで長年にわたり奉公人として技術を修得する徒弟がいた。
第38回日本史講座のまとめ② (近世の農民・近世の町人)_a0226578_10393242.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
3) 商家
 商人をめざすものは、10歳頃から丁稚(でっち)奉公をして年期をかさね、手代(てだい)・番頭に昇進し、主家の暖簾(のれん)をわけてもらって別家を立てることを目標とした。
第38回日本史講座のまとめ② (近世の農民・近世の町人)_a0226578_10402677.jpg
(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
4) 庶民の教育機関
 この時代には、幕府や藩の命令や村民の訴えは文書でやり取りされたため、町人や農民らも読み・書き・そろばんの能力が必要になった。そのため、往来物(おうらいもの)とよばれる初級者用の読み・書きの教科書が普及し、それを手本として子供達を学ばせる寺子屋(てらこや)を開く僧侶や牢人らもあらわれた。
第38回日本史講座のまとめ② (近世の農民・近世の町人)_a0226578_10431034.jpg
(三省堂「日本史B」より)
 
by YAMATAKE1949 | 2016-06-10 10:43 | 日本史講座