第41回日本史講座のまとめ① (百姓一揆と天明の飢饉)

 Ⅱ 百姓一揆と寛政の改革
1 百姓一揆と天明の飢饉
1) 百姓一揆の激化
 幕府や藩による商品作物の統制は、農民の生活を圧迫した。追いつめられた農民らは、年貢の減免、商品作物への課税の軽減や撤廃を求めた請願を行い、幕府や藩が応じない場合は越訴や百姓一揆を起こした。一揆の形も強訴に加え、幕府や藩に加担した特権商人の家屋などを打ちこわす場合が増え、しだいに幕府や藩の領域をこえて大規模化していった。
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(三省堂「日本史B」より)
 幕府や藩によって処罰された一揆の指導者は、民衆の芝居や物語などによって義民として語りつがれた。代表的な人物に江戸時代前期に活躍した下総(しもうさ)の佐倉惣五郎がいるが、この物語は史実として確認できることは少ないらしい。佐倉藩の重税に苦しむ農民ために将軍への直訴によって処刑されたという物語は、江戸時代後期に形成され、実録本や講釈、歌舞伎などで広く知られるようになった。小学校の教科書にも載せられた『ベロ出しチョンマ』というお話は、この物語を元に書かれたものである。
2) 天明の飢饉
 「三年に一度の不作、二十年目の小飢饉、五十年目の大飢饉」といわれているように、飢饉は起こったが、この頃に発生した天明の大飢饉は未曾有の被害をもたらした。
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(東京書籍「図説日本史」より)
 百姓一揆が続発するなか、東北・北陸・関東では、1782年から数年にわたって極度の冷害にみまわれ、浅間山の噴火が加わり大凶作がつづいた。このため、米価が暴騰し、ぼうだいな数の餓死者が出た。特に津軽藩では、稲作に不適な気候だったこともあり、20万人もの餓死者が出たといわれている。さらに疫病も流行したため、全国で約92万人の犠牲者がでたと推定されている。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
 これに対して、幕府や藩は十分な救済策を講じなかったため、都市や農村では貧しい人々が米価の値下げを求め、米を買い占めた城下町の米問屋らに打ちこわしをかけた。1787年には、直轄地の大坂や江戸でも大規模な打ちこわしがおこるなど、社会不安はさらに高まった。
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(東京書籍「図説日本史」より)
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by YAMATAKE1949 | 2016-06-20 09:38 | 日本史講座 | Comments(0)