第41回日本史講座のまとめ③ (寛政の改革)

3 寛政の改革
1) 松平定信の登場
 田沼意次が天明の飢饉による社会混乱の責任を問われて失脚した後、徳川吉宗の孫で陸奥白河藩主の松平定信が11代将軍徳川家斉(いえなり)を補佐する老中首座に就任した。その年は、1787年、6月、江戸・大坂に天明の打ちこわしがおこった直後であった。翌年、定信は幕政改革に着手したが、彼は吉宗の政治を模範として封建秩序の回復と財政基盤の安定をめざした。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
2) 諸改革
 定信はまず、物価引き下げや米の買い占め禁止を行い、人心の安定ににつとめ、1789年には棄捐令(きえんれい)を出して札差に債権を放棄させてその救済をはかった。
 次に異学の禁を出して朱子学を正学とし、それ以外の儒学の学派を異学とし、林家(りんけ)の家塾聖堂学問所(かじゅくせいどうがくもんしょ)を官立の昌平坂(しょうへいざか)学問所にして朱子学をさかんにし、武士の気風の刷新をはかった。さらに、親孝行などを行った善行者らを表彰するとともに、華美な風俗や町人の文芸活動を取り締まって、社会秩序の再建をめざした。1791年、洒落本(しゃれほん)作家の山東京伝(さんとうきょうでん)や出版元の蔦谷重三郎(つたやじゅうざぶろう)は手鎖50日の処分を受けた。また、女髪結いなども禁じられた。
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 経済政策では、両替商からの献金の廃止や専売所の解散など、田沼意次が行った多くの政策を廃止して幕臣と商人の癒着を断ち切った。
 また、定信は、江戸の治安維持にもつとめ、石川島に人足寄場を設置して浮浪人や無宿人を収容して社会更正をはかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 飢饉にそなえては、諸藩に囲米(かこいまい)を命じ、都市や農村でも社倉(しゃそう)(住民が分相応に穀物をだしあう)や義倉(ぎそう)(富裕者の義捐または課税による)を設けさせて穀物を蓄えた。江戸における七分積金(しちぶつみきん)も一種の囲米といえる。これは町入用の節約分の7分(70%)を米や金で貯えさせて非常の場合に役立てたものである。明治維新の際には170万両の余剰があり、東京市に接取され学校建設や道路整備に使用された。
 江戸に流れてきた農民には資金を与えて帰村を奨励する旧里帰農令(きゅうりきのうれい)を行った。
3) 結果
 幕府の年貢米はまもなく天明の飢饉以前の水準に回復したが、定信の施政に対する不満は各方面から反発が起こった。特に民衆は落首によって、息苦しい政治に強い不満を表明した。
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(山川出版「詳説 日本史研究」より)
 
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by YAMATAKE1949 | 2016-06-22 10:08 | 日本史講座 | Comments(0)