第42回日本史講座のまとめ① (外圧の激化と蝦夷地の防衛)

 第42回日本史講座は6月25日(土)午後2時より受講者9名で行われました。
5 外圧の激化と蝦夷地の防衛
1) 松平定信の老中辞職
 松平定信は厳格に質素・倹約をすすめてきたため、ぜいたくを好む11代将軍家斉(いえなり)との関係を悪化させた。さらに1789年、朝廷は光格(こうかく)天皇の実父に大上(だいじょう)天皇の尊号を与えることを幕府に願い出たが、定信はこれを認めず責任者を処分したがこれを尊号一件と呼ぶ。また、家斉が実父一橋治定(はるさだ)を大御所にしたいという希望にも、大御所は前将軍の呼称であるとして反対し家斉と対立したため、1793年、定信は老中を辞職した。しかし、他の老中らは留任したため、改革は定信腹心の老中松平信明(のぶあきら)に引き継がれた。
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東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 まもなく改革の成果があらわれ米は増産となったため、米あまりとなって米価が下落しだし、幕府や藩の財政に深刻な打撃を与えた。幕府は、江戸や大坂の商人に米の買い取りを奨励して価格の上昇を試みたが失敗した。そのため、米に代わる国産品の販売に一段と力を入れる藩が多くなった。
2) 外圧と蝦夷地の防衛
  対外的にも難題に直面した幕府は、最上徳内(もがみとくない)や近藤重蔵に千島列島を調査させた。徳内は出羽(山形県)の貧農出身であるにもかかわらず、たばこ行商などをしながら独学で学び、1781年に江戸に出て、29歳で本多利明の音羽塾に入り、天文・測量を学び、長崎へ算術修行にも行っている。利明の推薦により幕府の蝦夷地探検に参加した。1826年には江戸に来たシーボルトのアイヌ語辞典編纂などにも協力した。晩年は江戸浅草に住み、1836(天保7)年、82歳で亡くなっている。
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(ウィキペディアより)
 また、近藤重蔵は江戸駒込に与力の三男として生まれた。幼児の頃から神童といわれ、8歳で四書五経をそらんじ、17歳で私塾を開き、生涯、60余種1500余巻の著作を残している。1798年蝦夷地視察の一行に加わり、翌年、松前蝦夷地御用となって以降蝦夷地・千島方面を探索し、高田屋嘉兵衛の協力を得て択促(えとろふ)島でロシアの標柱を廃して「大日本恵土呂府」の標柱を建てるなど、ロシアの南下政策に対抗する北辺警備に尽力した。1808年には書物奉行となったが、自信過剰で豪胆な性格がわざわいし、1819年に大坂に左遷される。この時、大塩平八郎と会ったことがあり、重蔵は大塩に「畳の上では死ねない人」という印象を抱き、大塩もまた重蔵を「畳の上では死ねない人」という印象を抱いたとされている。晩年は長男の近藤富蔵が起こした一家殺害事件の連座で他藩に預けられ、1829(文政12)年、59歳で亡くなっている。
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(ウィキペディアより)
 1799年に東蝦夷地を直轄地とし、海防を強化した。1804年、ロシア使節レザノフがラクスマンの信用状をもって長崎に来航し通商を求めると、幕府は拒絶した。これをきっかけに、ロシア船が蝦夷地沿岸に出没したため、幕府は、1807年に蝦夷地全域を直轄地とし、間宮林蔵に樺太(からふと)を調査させた。林蔵は常陸の国(茨城県)の農民の子として生まれた。1790年頃に江戸に出て地理学を学び幕府の下役人となった。1800年には蝦夷地御用雇いとなり、蝦夷地測量中の伊能忠敬に測量術を学び、、蝦夷地や択促島をを測量している。1808年に幕府の命により樺太を探検し、樺太が島であることを確認した。このことは1832年、シーボルトによって間宮海峡の名で世界に紹介された。歴史の皮肉なことに、林蔵は幕府の隠密であり、シーボルト事件の密告者は彼であった。林蔵は自分が密告した人物によって世界に名を残せたのである。
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(東京書籍「日本史図説」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
 1811年に幕府がロシア軍人ゴローニンを監禁すると、翌年、ロシアも択促航路を開拓した高田屋嘉兵衛を抑留したために、両国間の緊張は高まるが、嘉兵衛の努力でゴローニンも釈放され事態はおさまった。しかし、樺太や千島列島で小競り合いがおきるなど日露両国にいぜん緊張がつづいた。
 また、1808年にイギリス船フェートン号が長崎湾に侵入する事件が起こった。目的は、本国がフランスの統治下にあったオランダの海外活動拠点を占領することだった。この事件は日本が欧米列強間の影響を受けることになったことを幕府に自覚させる事件でもあった。
 
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by YAMATAKE1949 | 2016-06-27 10:55 | 日本史講座 | Comments(0)