第42回日本史講座のまとめ③ (社会批判思想と町人思想のめばえ)

2 社会批判思想と町人思想のめばえ
1) 社会批判思想
 百姓一揆や打ちこわしなどによって、社会不安が高まるにつれて、社会や政治に関心を向けて、制度や社会のしくみを研究し批判する人々があらわれた。
 富永仲基(とみながちゅうき)は『出定後語(しゅつじょうごご)』を著し、儒教・仏教・神道などの思想や宗教の通念を排して、それにかわる規範として「誠の道」を説いた。三浦梅園(ばいえん)は天地創造の理に疑問をいだき、天地の間にある道理にもとづいて宇宙の構造を説明する条理(じょうり)学を提唱するとともに、労賃の変動の原因を追及して『価原(かげん)』を著した。
 安藤昌益は『自然真営道(しぜんしんえいどう)』をあらわし、身分制を否定してみずから耕作して平等に生きる「自然の世」を説き、封建制を鋭く批判した。しかし、農本主義を主張するあまり、商工業の存在を全く否定しており、また、直接に幕府の政策を攻撃するまでにはいたっておらず、近代的思想にはつながらなかった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 また、竹内式部(たけのうちしきぶ)は神道を学び、儒教のなかの大義名分論による尊王論を主張して、幕府の専横をおさえ朝廷の力を復活させようとした。1758年には、式部が京都で公家達に尊王論を説いたために追放されるという宝暦事件がおこった。1767年には、山県大弐(やまがただいに)が江戸で兵学を講じ、幕政の腐敗を攻撃したために死刑にされた明和事件がおこっている。
2) 町人思想のめばえ
 町人らの心をとらえたのは石田梅岩(ばいがん)の心学(しんがく)であった。農民出身で京都の商家に奉公した梅岩は、儒教・仏教・神道の三つの思想を取り入れ、人は身分に応じて生活すべきだとする立場から、商業活動を正当なものとして認め、商人の生きる道を分かりやすく説いて、町人らの支持を得た。梅岩の後、手島堵庵(てしまとあん)が諸国に心学舎の建設と教化活動にのりだし、ついで中沢道二(なかざわどうに)がこれを継承・発展させ、心学舎の数は全国で180余りに達するほどの発展をみせた。しかし、心学はしだいに現世に対する不満や批判をそらす消極的なものとなり、やがて民衆から見捨てられていった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京書籍「日本史図説」より)
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by YAMATAKE1949 | 2016-06-29 10:07 | 日本史講座 | Comments(2)
Commented by f-nobu at 2016-06-29 17:41 x
第42回日本史講座のまとめ、有難う御座います、
特に今回の講座は、まったく知らなかったことが多く
興味津津で”アッ”と言うまの2時間でした。
1780~1800年代のわが国にも、隠れた偉人が輩出したのですね、最上徳内や近藤重蔵など”偉い人々です。
Commented by YAMATAKE1949 at 2016-06-30 08:51
コメントありがとうございます。
貧農出身でたばこの行商をしながら学問を続けた最上徳内も立派ですが、医者の仕事を続けながら、夜に学問に励んだ本居宣長も素晴らしい人ですね。また、農村社会から人間社会の平等を主張した安藤昌益など、世間にはあまり知られていない偉人を発掘することも大切ですね。