第44回日本史講座のまとめ① (内憂外患)

 第44回日本史講座は7月23日(土)午後2時より受講者8名で行われました。
 Ⅱ 内憂外患と天保の改革
1 内憂外患
1) 内憂
 農村では、農業を人まかせにして工場経営や商品作物の販売に専念する豪農が出現したが、一方で田畑を手放して賃稼ぎなどで収入を求める貧しい農民が多数生まれた。彼らのなかには、職を求めて江戸や近隣の在片町に流れこんだ。その多くは、資金も技術もなかったので、裏長屋に住んで行商などの不安定な仕事で生計をたてた。また、はなやかな都市の暮らしに憧れ、村を逃げ出す若者も増えたが定着できず、博徒などの無宿人となり、都市の治安が悪化した。
 1805年、幕府は水戸藩をのぞく関東に警察権をもつ関東取締出役(とりしまりしゅつやく)を設置して治安の維持に努めたが、効果はなかった。
2) 幕府権力の低下
 1833年から数年間、東北・北陸・北関東で天候不順から凶作がつづき米価が暴騰した。そのため、農村や都市の貧しい人々は飢えに苦しみ、米価の値下げを求めて百姓一揆や打ちこわしを起こした。1836年は大凶作だったので、幕領の甲斐(かい)三河など各地で大規模な一揆が起き、社会不安が一挙に高まったが、幕府や諸藩の救済は後手に回り膨大な数の餓死者を出した。これを天保の飢饉とよぶ。
 このため、武士からも幕政批判が起こったが、なかでも大塩の乱は幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。大塩平八郎は大坂町奉行所の元与力であるとともに陽明学者でもあった。在職中には数々の功績を挙げ、世間の評判は高く、辞職後は私塾洗心洞(せんしんどう)を開いた。1836年天保の飢饉に奉行所に難民救済を直訴したがいれられず、蔵書を売却して窮民を救い、1837年2月、同志を募って挙兵したが鎮圧され自刃(じじん)した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 同じ1837年、越後で国学者が起こした生田万(いくたよろず)の乱をはじめ、大塩の挙兵に共鳴した一揆が各地で起こった。
 1840年、幕府は沿岸警備の負担で財政難に陥っていた川越藩主を豊かな庄内藩に、庄内藩主を長岡藩に、長岡藩主を川越藩に転封(てんぽう)させる三方領地替えを命じたが、庄内藩の領民の抵抗は強く、外様大名からも不満が出たため、翌年、幕府はこれを撤回した。これは幕府の権力が弱まったことを示すできことである。
3) 外患
 この頃、各地の沿岸に外国船が頻繁に姿を見せはじめた。幕府は鎖国を堅持するために、1825年、沿岸に接近した中国以外の外国船を容赦せずに撃退せよという異国船打払令を出した。1837年、日本人漂流民の送還と通商を求めてアメリカの商船モリソン号が江戸湾の入口にあたる浦賀に来航したが、これを撃退するというモリソン号事件が起こった。これに対して蘭学研究をとおして欧米列強の国力の強大さを知っていた高野長英は『戊戌夢物語』を渡辺崋山は『慎機論』でそれぞれ幕府の外国船対策の無謀さを批判したが、幕府は高野長英と渡辺崋山を蛮社の獄とよばれる弾圧によって処罰した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 渡辺崋山は三河田原藩の貧しい藩士であったが出世して家老となった。蛮社の獄で永蟄居(えいちっきょ)を命じられ、藩に迷惑がかかるのを恐れて2年後に切腹した。彼は画家としては西洋画法を取り入れた写生画家として有名であるが、絵を描いたのも収入を得るためであったといわれている。
 一方、高野長英は陸奥(岩手県)水沢藩の医師の子として生まれた。江戸で蘭学を学び、長崎ではシーボルトの鳴滝塾で学んだ。彼は日本で初のピタゴラス、ガリレオ、ジョン・ロックなどの哲学史を要約した。蛮社の獄で終身刑となったが、1844年の牢屋敷の火災で脱獄し、硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、兵学の翻訳などに活動し、江戸に戻ったところを発見されて幕府の役人に囲まれて自殺した。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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by YAMATAKE1949 | 2016-07-24 10:21 | 日本史講座 | Comments(0)