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第46回日本史講座まとめ③ (日本の開国)

3 日本の開国
1) ペリーの来航
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 日本は英仏ではなくアメリカよって開国をせまられたがそれはなぜか、列強の間にもそれぞれ事情があった。イギリスは太平天国の乱やインド大反乱の鎮圧に力をとられ、フランスは本国で起きた二月革命の混乱への対応に追われていた。また、英仏は1853年に起こったクリミア戦争にはトルコを援助してロシアと戦い、ともに日本進出の余裕はなかった。
 一方、アメリカは、1848年にカリフォルニアで金鉱が発見されて以来、西部開拓が進み、太平洋岸に都市が建設された。余談ではあるが、49年のゴールドラッシュの時に鉱夫の作業ズボンに目をつけたのがヤコブ・デービスで、彼はリーバイス社から仕入れたキャンパス生地を用いて仕事用パンツを発売し大もうけした。このパンツがジーンズと呼ばれるのは、イタリアの都市ジェノバから輸入されたためらしい。
 当時アメリカは、灯油の原料としてクジラの脂を使っていたが、大西洋の捕鯨漁業は取り尽くされ、新たに北太平洋捕鯨漁業が盛んとなった。そのため捕鯨船の飲食料や燃料の補給地として、また、中国貿易を行う船舶の寄港地として、日本や琉球が必要になっていた。ビッドル来港から7年後の1853年、アメリカ東インド艦隊司令官ぺりーが軍艦4隻をひきいて浦賀にあらわれ、フィルモア大統領の国書を示して開国をせまった。幕府は、ペリーの軍事的圧力におされて国書をうけとり、回答を翌年に引き伸ばした。また、ロシア使節プチャーチンが長崎に来港して、国境の画定と開国を求めてきた。
2) 幕府の対応
 阿部正弘は、徳川斉昭を海防参与に任命し、慣例を破って朝廷にペリー来航を伝え、幕臣だけでなく、大名にも意見を求めた。阿部は、挙国的な対応でこの難局を乗り切ろうとした。阿倍のこのようなやり方は、従来、幕政の局外に置かれてきた朝廷の権威を高め、公家や外様大名が幕政に介入するきっかけを与えた。
3) 日米和親条約
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
 1854年、ペリーは軍艦7隻で再び来航して開国を迫ったので、幕府はやむなく日米和親条約を結んだ。条約では、①アメリカ船への燃料・食料・石炭を供給するために下田と箱館の2港を開く、②難破船や乗組員を救助する、③アメリカ人総領事を下田に常駐させる、④アメリカに一方的な最恵国待遇を与えること、などが取り決められた。継いで幕府は、イギリス・ロシア・オランダとも同様の条約を結んだ。
 こうして、200年以上つづいた幕府の鎖国体制は完全に崩壊した。
by YAMATAKE1949 | 2016-09-14 09:39 | 日本史講座