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ブルガリア・ルーマニア旅行記30 (ブダペストの夜景)

 私たちのバスはマラムレシュ地方の森を越えてハンガリー国境近くのサトゥ・マーレまで進み、そこで昼食をとった。
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(マラムレシュ地方の森)
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(トキトゥーラ)
 昼食はトキトゥーラというメニューで、豚肉にソースを絡めた料理で地域ごとに調理法が違うらしい。
 バスは午後3時20分にハンガリーとの国境に到着した。私たちはハンガリーのバスに乗り換えたが、ハンガリーのガイドはラスロさんだった。
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(ハンガリーガイドのラスロさん)
 国境での入国手続きが30分ほどで終わり、午後3時50分にバスはブダペストに向けて出発した。
 ルーマニアを去るにあたり、ルーマニアガイドのイレーナさんが話してくれたルーマニアの歴史をここでまとめておきたい。
 ルーマニアの語源は「ローマ人の国」という意味から来ており、バルカン半島でラテン人が形成した国である。しかし、この地域の歴史はもっと古く、紀元前8世紀にはインド・ヨーロッパ語族のダキア人がこの地域で活動していた。
 その後、2世紀の初めにローマ帝国のトラヤヌス帝がドナウ川を越えてダキア人を支配し属州とする。やがてダキア人はローマ人と混血しローマ化が進み、これが今のルーマニア人の直接の祖先となる。その後、スラヴ系民族の移住、さらにブルガール人の支配下に置かれるが、ラテン民族の特色は残った。10世紀頃になるとこの地方は、ワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアの3ヵ国にまとまっていく。このうちトランシルヴァニアは早くからハンガリーの支配下に入るが、ワラキア・モルダヴィアは13世紀にタタールの支配下に入る。しかし、14世紀になるとタタール人を退けワラキア公国・モルダヴィア公国となる。
 15世紀になるとオスマン帝国の侵入が進み、これに抵抗したワラキア公国のヴラド3世は民族の英雄とされている。しかし、16世紀にはバルカン半島はオスマン帝国の完全な支配下に入る。
 18世紀になるとオスマン帝国の支配が弱まり、1861年にワラキア公国とモルダヴィア公国が統合してルーマニアが自治公国として成立する。1877年の露土戦争でロシアと共にオスマン帝国と戦い、1881年にルーマニア王国を宣言してカルロス1世が即位する。これ以後の歴史は以前に紹介したので省略する。
 私たちのバスがブダペストに到着したのは、ハンガリーの現地時間(ルーマニアより1時間もどる)で午後7時(ルーマニア時間では8時)を過ぎていた。
 ハンガリーの夕食はビアホールでの生演奏つきの食事であった。
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(ビアホールでの生演奏)
 夕食の後、私たちはバスでホテルへと向かったが、サービスでブダペストの美しい夜景を車窓から見せてくれた。
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(ブダペストの夜景)
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(くさり橋)
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(国会議事堂)
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(マーチャーシュ教会)
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(聖イシュトヴァーン教会)
 私たち夫婦は2年ほど前にハンガリーに来ており、ブダペストの夜景は懐かしく、何度見てもここの夜景は美しいものであると感じた。
 私たちは翌朝、午前6時30分にホテルを出発し、空港へと向かった。飛行機はブダペストを午前9時35分頃にフランクフルトへ飛び立ち、さらに午後1時30分にフランクフルトから関空へと向かった。関空に到着したのは10月19日(水)の午前7時20分頃であった。
 以上で「ブルガリア・ルーマニア旅行記」は終わりです。長い間ブログを読んでいただいてムルツメスク(ルーマニア語でありがとう)、それでは皆さん ラ レヴェデレ(ルーマニア語でさようなら)。
by YAMATAKE1949 | 2016-11-24 11:41 | 旅行記