第48回日本史講座のまとめ① (江戸幕府の滅亡)
1) 明治天皇の即位
1866年、討幕には反対していた孝明天皇が急死し、翌年、1月、わずか満14歳の明治天皇が即位すると、朝廷内にも反幕府勢力が台頭した。
幕府では、15代将軍となった徳川慶喜が、フランスの協力で幕政改革を断行したが、幕政の立て直しは困難であった。
2) 民衆の動き
世相も、この頃には極めて険悪になっていた。1866年頃から各地の農村では、百姓一揆が盛んになり、なかには世直しを唱えるものもあった。また、江戸・大坂の市中には打ちこわしが頻発し、さらに、1867年の夏頃から東海地方から中国・四国地方にかけて「ええじゃないか」と呼ばれる民衆の乱舞がおこったが、このような混乱のうちに、討幕運動が進められていった。
3) 大政奉還
武力討幕の気運が高まるにつれ、坂本竜馬は同じ土佐藩出身の後藤象二郎とともに、前藩主山内豊信(とよしげ)をつうじて、慶喜に大政奉還を建白した。慶喜はこれを受け入れ、1867年10月14日、朝廷に大政奉還を上表した。
4) 討幕派のクーデター
一方、武力討幕派は、同じ日に討幕の密勅を手に入れ、12月9日、薩摩・長州藩だけでなく、土佐・越前・尾張の3藩の兵を動かして宮廷を包囲し、王政復古の大号令を出して新政権を樹立した。そして、幕府の返上や将軍職の辞退、摂政・関白などの官職の廃止を承認し、天皇のもとに総裁・議定・参与の三職を設け、雄藩連合政権が樹立された。その夜開かれた三職による小御所会議で、慶喜を会議に呼ばずに慶喜の官位や領地を天皇へ返還させることが決められた。
そのため、新政権のなかで重要な位置につくことを期待していた慶喜は、新政権と武力で争わなければならなくなった。