第50回日本史講座のまとめ⑤ (大久保政権の成立)
Ⅰ 大久保政権の成立
1 岩倉使節団
1871年、政府は右大臣岩倉具視一行を欧米に派遣して条約改正交渉と欧米視察にあたらせた。この使節団には副使として木戸孝允・大久保利通・伊藤博文ら、明治政府の中心人物たちが参加していた。 条約改正交渉は最初の訪問国アメリカで挫折し、使節団は世界のなかでの日本の位置を思い知らされた。以後、政府首脳みずから各地を見聞したが、欧米が進んだ教育や政治制度のうえに強大な文明をつくりあげていることを知り、近代化こそ急務だと痛感して帰国したことは、その後の富国強兵・殖産興業政策の展開のために大きな刺激となった。
2 征韓論争
1)征韓論
1871年、清と対等な日清修好条規を結んだ政府は、岩倉使節団が出発すると、清を宗主国とする朝鮮に対し、従来の対馬にかわって、天皇の名による外交を要求した。朝鮮がこれを拒否すると、政府内に朝鮮を武力でのぞむべきだとする征韓論が高まった。
1873年、岩倉使節団との約束で新規の政策を行わないとしていた留守政府の西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らは、朝鮮への出兵を前提とした使節派遣を閣議決定した。しかし、帰国した木戸や大久保らは国内の体制整備が先決であるとして征韓論に反対し、結局、使節派遣の無期延期が天皇から許可されると、西郷ら征韓派は一斉に辞職したが、これを明治6年の政変と呼ぶ。
2) 大久保政権の成立
明治6年の政変後、大久保は国内行政に絶大な権限を持つ内務省を設けて内務卿に就任し、有司と呼ばれる少数の高級官僚による政治運営の体制を強固にした。
3) 日朝修好条規
政府は朝鮮に対し、1875年、首都の漢城近くの江華島に軍艦を派遣して挑発し、江華島事件を引き起こし、翌年に日朝修好条規(江華島条約)を結ばせた。この条約は、日本に対し釜山など3港の開港、治外法権の承認、関税の免除、日本貨幣の自由使用権などを認めるなど、朝鮮にとって、日本が欧米と結んだ条約以上に不平等なものであった。