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第66回日本史講座のまとめ①(日独伊防共協定の成立)

 第66回日本史講座は、10月14日(土)に受講者5名で行われました。
 第20章 日中全面戦争と外交
 Ⅰ 軍部の台頭と外交
1 日独伊防共協定の成立
 日本が中国侵略を進めているころ、ヨーロッパにおいてもファシズム政権をつくったドイツ・イタリアがイギリス・フランス・ソ連と対抗し、ヴェルサイユ体制打破に乗り出していた。
1)ドイツのファシズム化
 大恐慌の影響で社会不安の高まったドイツでは、ヒトラーが率いるナチスが過激な民族主義・ユダヤ人排斥・反共産主義をとなえ、ドイツ民族の生存のためには他国への侵略も許されるという世界強国をめざす対外膨張政策を主張して国民の支持を集め、1933年に政権を掌握した。ヒトラーは国際連盟を脱退して、再軍備を開始し、1938年にはオーストリアを併合した。
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
2)ベルリン・ローマ枢軸
 イタリアでは、1922年にファシスタ党を率いたムッソリーニが政権を握り、1935年にはエチオピア侵略を開始した。1936年、スペインでフランコが右翼勢力を率いて人民戦線内閣に反乱を起こすと、ドイツ・イタリアはともにこれに軍事援助を与え、それを通じて両国は手を結んで、いわゆるベルリン・ローマ枢軸が結成された。1937年、フランコを支持するヒトラーの空軍は徹底的な空爆をバスク地方の重要な都市ゲルニカに行った。この事件に激しい衝撃を受けたスペインの画家ピカソは大作「ゲルニカ」にその怒りを凝縮させ、パリ万博に出展した。なぜゲルニカが爆撃されたのかというと、この都市が人民戦線政府を支持していたとともに、イギリスとの経済的関係が深かったことがあげられる。さらに、この都市はバスク人にとって古来から神聖な場所であった。「バスク人には、古来、共同体全体の問題を樫の大木の下で話し合って決める習わしがあり、『ゲルニカの聖なる木』もそのひとつだった。中世以来、バスク地方を支配下に置く歴代のカスティーリァ王は、この地方の特権の保証をゲルニカの木の下で宣誓してきたため、ゲルニカの聖なる木とその町は、いわばバスクの自由と独立の象徴となったのである。…自由の象徴だったゲルニカは、ピカソの絵によって、戦争の恐怖の象徴として20世紀の遺産のひとつに数えられることになった。」(文芸新書 『民族の世界地図』より)
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(第一学習社「最新世界史図表」より)
 3)日独伊防共協定
 このころ、東アジアにおいては、日本が中国政策をめぐってアメリカ・イギリス・ソ連などと対立を深めつつあった。1934年、日本は単独でワシントン海軍軍縮条約を破棄し、1936年にはロンドン海軍軍縮会議からも脱退した。その結果国際的孤立化を深めた日本は、1937年に日独伊防共協定を結びソ連を敵視した。
 

by YAMATAKE1949 | 2017-10-16 10:36 | 日本史講座