第57回日本史講座のまとめ②(日露戦争)

2 日露戦争
1)日露協商論か日英同盟論か
 ロシアは、遼東半島を租借し、義和団事件後には中国東北地方(満州)に軍隊を残し、清や韓国への影響力を強めようとした。
 これに危機感を持った日本政府内では、ロシアとの関係改善に努め、日露協商を結んでロシアの満州における自由行動を認めるかわりに日本の韓国支配を認めさせようとする伊藤博文や井上馨らと、イギリスと提携してロシアを抑えようとする山県有朋や桂太郎らとに意見が分かれた。結局、日英同盟論が多数を占め、イギリスもロシアとの対抗上、日本の軍事力を期待して接近したため、1902年、桂内閣は日英同盟協約を結んだ。この協約は日露単独戦ならイギリスは中立。第3国がロシアを支援した場合はイギリスに参戦義務を負った。日本政府はロシアと交渉しながら戦争準備を急いだ。
2)国内世論
 1903年になると、日本国内では東京帝国大学の七博士や近衛篤麿(このえあつまろ)・頭山満(とうやまみつる)らの対露同志会は対露強硬論をとなえ、開戦を強く訴えた。また、新聞社のほとんどが主戦論に傾くなかで、新聞『万朝報(よろずちょうほう)』では、内村鑑三がキリスト教の人道主義の立場から非戦論を、幸徳秋水や堺利彦らが帝国主義戦争に反対する不戦論を主張した。しかし『万朝報』が主戦論に転じると、幸徳・堺らの記者は退社し、世論が圧倒的に開戦論に傾くなかで、平民社をつくって機関紙『平民新聞』を創刊し、反戦を訴えた。また、戦争中、与謝野晶子は『明星』に「君死にたまふことなかれ」を発表して反戦を訴えた。
3)日露戦争
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
  1904年2月8日、日清戦争と同様に宣戦布告より先に、日本軍は旅順港のロシア軍を奇襲して日露戦争が始まった。戦争は満州を中心に戦われ、旅順や奉天では両軍は数万人の死傷者を出す激しい戦闘となったが、日本は日本海海戦に勝利した。しかし日本は100万人を超す兵力と当時の国力をはるかに超えた17億円以上の戦費を使い、そのうち7億円は外国で募集してまかなったもので、資金や兵器、弾薬が乏しくなって戦争を継続できなくなった。ロシアもまた、1905年に専制政治に対する不満から第一次ロシア革命が起こり、ロシア政府も戦争継続が困難となった。
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(東京法令「日本史のアーカイブ」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)
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(東京書籍「図説日本史」より)

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by YAMATAKE1949 | 2017-04-18 10:49 | 日本史講座 | Comments(0)